神 戸 新 聞
2.終戦直後(掲載日:2002/02/15)
混乱の中、生活立て直す
 
 「猪名川河川敷と飛行場の近くに、飯場(はんば)らしい建物が二棟ずつあった。トタン屋根のバラックだけど、その一つで暮らし始めたんですよ。辺りに住んでいたのは十四世帯ぐらいかな」

 中村地区自治会役員の朱宗燮(チュ・チョンソプ)さん(64)が、両親と疎開先から中村地区に移り住んだのは一九四五年秋、八歳のときだった。

 終戦直後、多くの朝鮮人労働者がこの地を去った。日本の敗戦は帰国への道を開いたが、祖国は同時に分割占領下に置かれた。戦後の混乱の中、貧しさも手伝い、行き場を失った朝鮮の人々。彼らは再び知人や親類を頼りに日本各地から中村地区に集まってきた。

 
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 「親は苦労の連続だったろうね。子ども六人を養うために」と朱さん。今も、必死で働いた両親の姿がよみがえる。

 「初めはどぶろくづくり。私も一升瓶を自転車の荷台に積んで得意先に運んだ。子どもながらに密造酒と分かっていたから、交番の前を通るときはびくびくしたもんですよ」

 養豚、河川敷での砂利採取…。学校から帰ると一目散に両親のもとへ。畑仕事も手伝った。

 米軍が接収した伊丹飛行場には鉄条網が張り巡らされたが、中村地区は接収されなかった。伊丹市の記録では五〇年ごろ、米軍が立ち退きを迫ったが、住民が応じなかった―とある。

 飛行場は五八年に返還され、「大阪空港」となる。やがて国際線就航に向けて二本目の滑走路(三千メートル)の新設が決まる。買収された用地は、伊丹市内だけでも約三十八ヘクタールに及び、現在の中村地区の北側にあった日本人の集落は移転を余儀なくされた。

 「拡張されるまで、飛行場は今より小さかったし、周囲には田んぼや畑が広がっていた。父親からは、移転した集落にいた日本人の地主から、畑も自宅の土地も買ったと聞いた。一坪いくらで権利売買してね」

 “権利売買”。法的に土地の所有権を持つことのない同地区の多くの住民が、この言葉を口にする。

 「実際に、日本の人がここで農作業をしていた。権利売買といっても、読み書きができないから口約束みたいなもの。畑に来た地主さんに声をかけ、土地を譲り受けたんだと思う」

 中村地区にはわずか約二百平方メートルだが、私有地の登記が残る。一体いつから大半の土地が国有地となったのか。朱さんは疑問を捨て切れない。

 
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 朱さんは自宅の敷地内でニット加工業を営むが、仕事はめっきり減った。働き者の両親も亡くなった。

 韓国・慶尚南道で生まれたが、日本に渡ってからは故郷を訪れたことがない。

 「最後にはやはり、ふるさとの土を一度この手で握りしめてみたいですよ」。

 こみ上げる思いをかみしめた。

 
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