夢の甲子園へ 神戸国際大付明石の3球児

下.大西 正樹投手 (2005/03/22)
地域に恩返しを/中学での悔しさバネに
二見北小6年のとき。地域の軟式野球クラブで(大西里香さん提供)

 二〇〇二年七月、加西市の加西球場。勝てば、県大会出場が決まる一戦は同点のまま延長に入った。中学軟式野球の東播大会準決勝の宝殿(高砂市)戦。マウンドには、二見中の左腕エース大西正樹投手がいた。

 細谷潤監督(34)は今もこのシーンを忘れない。無死満塁から始める特別ルールの十一回裏、大西投手は二死満塁からサヨナラとなる押し出し四球を与えた。試合後、大西投手は「僕の責任です。すみませんでした」と泣き崩れた。中学生活で最後の試合となった。

 「今思い出しても、自分自身に腹が立つ」と大西投手。人一倍の負けず嫌いがチームを引っ張った半面、「力ずくで抑えようとし、自滅することもあった」と細谷監督は振り返る。大西投手は高校で、中学での悔しさをばねに練習に励んだ。細谷監督は「体つきがしっかりし、精神的にも成長した」と感じている。

 初戦の相手が決まった十五日、大西投手は細谷監督に報告に訪れた。「初戦は応援に行けないけど決勝に行くから」という細谷監督に「分かりました」と笑顔で返した。

 大西投手は二見町東二見で育った。地元の御厨(みくりや)神社の秋祭りは勇壮な屋台練りに大勢の人が集う。祭り好きの大西投手は高校に入っても屋台を担ぎ、「もしものことがあったら」と周囲が説得してやめさせたこともあった。

 「あの子は地域の人に育ててもらった」と母の里香さん(38)は話す。

 幼稚園のころはサッカー選手になるのが夢だった。二見北小学校に入って友だちが次々とソフトボールを始め、三年生のとき「ソフトボールをやりたい」と言いだした。

 最初は外野手だった。投球の才能を見抜いた指導者が「左投手がいないから」と転向を勧めた。しぶしぶ始めたはずが、マウンドに立つと、祭り好きの血が騒いだ。

 同時に責任の重さも感じた。祖父の強さん(72)や里香さんを相手に自宅近くで日が暮れるまで投げ込んだ。強さんの顔にボールが当たり、下の歯が抜けたこともあった。

 家族で一番の理解者だった祖母の美津子さんが昨年六月、六十七歳で亡くなった。何でも相談に乗ってくれた祖母。今使うグラブは、高校一年の秋、美津子さんが買ってくれたものだ。刺しゅうで縫った「大和魂」の文字は地元の祭りのおはやしから取った。

 「お世話になった家族や地域の人に恩返しを」と大西投手。地元の期待を一身に背負い、夢の祭り舞台に立つ。

(後藤亮平)

 
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