記憶の交差点  御影公会堂物語

 

1.焼け野原に立つ

(2005/08/15)


大空襲耐えたシンボル

西側の壁面に残る焼夷弾の跡。60年前の激しい戦火を今に伝える=東灘区御影石町4

 一九四五(昭和二十)年六月五日。既に夏の気配は濃く、強烈な日差しが窓ガラスに反射して、暑い一日を思わせる朝だった。

 空襲警報発令。当時、灘中学二年生だった木下隆郎さん(73)=東灘区御影石町=は、家族と庭の防空壕(ごう)に潜った。

 間もなく、米軍のB29爆撃機の大編隊が姿を現した。缶詰をばらまくように、無数の焼夷(しようい)弾が降り注ぐ。「ザアー」。不気味な落下音とともに、付近で爆発音が聞こえた。自宅の倉庫と、隣家を直撃した。炎はたちまち自宅に燃え移った。

 「だめだ」。直感した木下さんは、防空壕を飛び出し、酒蔵が立ち並ぶ石屋川沿いの小道を一目散に浜へと駆けた。

 長い長い時間だった。空襲が終わり、自宅へ駆け戻った。一面の焼け野原だった。

 同じころ、灘中学一年生だった鈴木利裕さん(73)=東灘区御影石町=は、国道2号を東へ東へと走っていた。

 「空を黒い煙が覆っていたので、明るい方角へと走った。親とはぐれ、妹と近所の子ども三人を連れて逃げた」

 B29が見えると溝に身を隠した。気が付くと、住吉川まで来ていた。橋の下に、避難した人々があふれていた。辺りは焼け野原だった。

 夕方。焼け跡を戻ろうとしたら、「横向きの竜巻」が起きていた。ものすごい熱風で、前へ進むことができなかった。じっとしていたら、知人と出会い、父のところへ連れて行ってくれた。

 鈴木さんの顔を見た瞬間、父はつぶやいた。「おまえらは、死んだと思っていた」。落ち合う約束をしていた防空壕に爆弾が直撃し、全員死んだという。

 鈴木さんの父は、御影公会堂の地下で食堂を営んでいた。

 当時の御影町が建てた公会堂は、四五年五月十一日の空襲で、爆弾がそばの国道2号と石屋川に落ち、その衝撃で窓ガラスが割れ落ちていた。

 六月五日の空襲では、内側に炎が入った。鈴木さんの父は食堂に駆け付け、燃え移った火を消し止めた。公会堂は外壁と一階南側の三部屋、そして地下食堂を残し、全焼した。

 鈴木さんは、焼け残った公会堂の前から見た光景が忘れられない。

 「西は西灘ぐらいまで見渡せた。南は阪神電車の高架とわずかな鉄筋の建物。そのほかは残っていなかった。野坂(昭如)さんの小説『火垂(ほた)るの墓』、あの通りや」

 一息ついた後、鈴木さんは言った。

 「生き残れたのは、本当に奇跡やった」

(記事・長沼隆之  写真・峰大二郎)

◇  ◆

 御影公会堂。東灘、灘区の境を流れる石屋川と国道2号が出合う地に立つ。戦災、阪神・淡路大震災に耐え、人々を守り続けた頼もしい建物。完成から七十二年を経た今も変わらぬ姿に、人々はさまざまな記憶を重ね合わせる。戦後六十年。公会堂の歩みをたどる。

 
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