第13部 脱 失われた10年

(2008/04/13)

(2)改革
規制緩和 旗振り続け 「光と影」なお渦巻く
「米英ではレーガン、サッチャーが規制改革を主導した。日本も政治家がリーダーシップを」と語る宮内義彦さん=東京都港区芝4(撮影・大山伸一郎)

 一七八センチのすらりとした長身。プロ野球球団の沖縄キャンプ通いで日焼けした顔。神戸出身のオリックス会長宮内義彦(72)は、古希を過ぎたとは思えない精悍(せいかん)な雰囲気を漂わせていた。

 宮内には幾つかの「顔」がある。大企業集団の経営者。財界人。球団オーナー。そして、バブル崩壊後の十数年間、規制改革の「顔」であり続けた。「改革をやらなければ(日本経済は)どうなっていたか。ぞっとする」

 日本で規制改革が叫ばれたのは一九八〇年代にさかのぼる。八三年、政府の第二次臨時行政調査会が国鉄、電電公社、専売公社の民営化を打ち出し、その後、相次いで実行された。九〇年代に入り景気低迷、経済のグローバル化に押され、加速度を上げる。

 「既得権益を持つ人が悠々と生きられる社会では、より良いモノ、サービスが生まれない」と、宮内が規制改革にかかわったのは九一年だ。第三次臨時行政改革推進審議会の部会メンバーになったことが始まりだった。九六年に規制改革小委員会の座長となり、以後、改革の旗を振る。

 トップを務めた約十年間、緩和対象として掲げた項目はざっと六千六百。ガソリンスタンドのセルフ化や医薬品の小売店での販売など、生活に密着した分野も少なくない。

 それでも心中は複雑だ。「疲れ果て、抵抗を受けながらやって、これだけかと」。市民生活と深くかかわる医療、農業、教育の三分野で十分な成果を得られず、悔いが残る。

 かつて日本が世界一を競った一人当たりの国民総生産が二〇〇六年には経済協力開発機構加盟三十カ国中十八位まで落ち込んだ。「改革はまだ山のようにある。そうでないと世界の中で置いていかれる」

 神戸に生まれ、戦後、商社マンだった父が英語を操り米兵と接する姿を見て育った。関西学院大を卒業後、米国のビジネススクールで学ぶ。日本人留学生は少なく、孤独の中で開拓精神を培った。

 日綿実業(現双日)入社四年目に、リース業の研修で再渡米。帰国後、旧オリエント・リースの立ち上げに参加しトップに登り詰めた。その体験が後の歩みを決定付けた。

 〇一年発足の小泉政権下で構造改革を支え、〇六年、小泉退陣で任を終えた。辞任前後、証券取引法違反に問われた村上ファンド事件に絡み、自社や日銀総裁の出資問題で厳しく批判された。

 改革は郵政民営化や金融機関の不良債権処理を促した。半面、競争激化で弱者が追いやられ、格差を生んだと指摘される。昨夏の参院選で与党惨敗の一因とされ、改革の「光と影」は今なお渦巻く。

 だが「世界と競って勝たないとパイは大きくならず、影が濃くなる。今は『成長するのは嫌だ、でも分け前をよこせ』という世の中。そういう考え方こそが影だ」。宮内は語気を強めた。(敬称略)

自由競争で 経済再生促す
壁乗り越え 良質サービス実現へ
神戸港を出る貨客船「高砂丸」の絵をバックに神戸を懐かしむ生田正治さん。初任地は旧三井船舶の神戸支店だった=東京都港区虎ノ門2(撮影・浦田晃之介)

 改革なくして成長なし―。

 元首相の小泉純一郎は二〇〇一年から五年半にわたって、規制緩和や不良債権処理などの「構造改革」を推し進めた。市場競争を促す改革の担い手には、オリックス会長の宮内義彦(72)をはじめ兵庫ゆかりの経済人が連なった。

 小泉改革のエンジンとなった経済財政諮問会議。民間議員を務めた姫路出身の牛尾治朗(77)は、森喜朗政権で同会議が発足した時からのメンバー。「全改革のとどのつまりは郵政民営化だ。総理になったのは手段にすぎない」。小泉にそう請われて再任を決意した。

 神戸三中(現長田高)、東大を経て東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)に勤務。休職して米カリフォルニア大大学院に私費留学。そこで自由・独創・挑戦への称賛を惜しまない米国の流儀に触れた。

 一九六四年、父が経営する赤字会社の電機部門を分離して光源装置メーカーのウシオ電機を興した。「世界の中堅企業」を目指し、高いシェアを持つ差別化製品に力を入れた。「本来、人間は独創性があり、自由に動くもの。電機業界は規制が少ないから会社も大きく伸びた」と振り返る。

 社業の傍ら、財界活動に力を入れた。国鉄民営化などを決めた第二次臨時行政調査会委員、経済同友会代表幹事を歴任。経財諮問会議には民間の発想を吹き込んだ。

 「小泉改革は、彼が言ったことの三割しか進んでいないだろう。いい家の階段には踊り場があるように、日本はいい国になったのだから踊り場がある。小休止して格差問題を議論するのもいい。今は踊り場の時期だ」

 小泉は郵政民営化を改革の「本丸」と位置付け、日本郵政公社の初代総裁に民間人の起用を表明した。白羽の矢を立てたのが、芦屋出身で大手海運の商船三井会長だった相談役生田正治(まさはる)(73)である。

 官邸から打診があったのは〇二年七月ごろ。宮内とともに経済同友会の副代表幹事を務め、宮内率いる総合規制改革会議の委員でもあった。小泉とは接点がなかったが、社長時代に同業大手との合併を果たした経営手腕を買われた。

 生田は肝臓の手術を受けたばかりで、就任要請を拒み続けた。小泉と面会して正式に断ったが、同席した政治家が「受諾した」と報道陣に発表。「ぜひ、改革を手伝ってほしい」と、とどめを刺す小泉に退路は断たれていた。

 〇三年の就任後は「真っ向サービス」のキャッチフレーズを掲げ全国を飛び回り、職員との対話を徹底した。投資信託の販売やコンビニ大手との提携など、新機軸を打ち出すたびに「民業圧迫」と批判された。だが、「民間人として総裁になった以上、民営化に耐えられる体質をつくるのが務めだった」。

 郵政民営化への抵抗は激しく、小泉は解散・総選挙を強行。実施は当初予定の〇七年四月から半年延期された。生田はその時まで総裁にとどまる意向だったが、民営化準備を自らの手で完遂できないまま、〇七年三月末に退任した。

 宮内、牛尾、生田が研さんを積んだ経済同友会は「財界人養成所」といわれる。神戸出身で人材派遣会社「ザ・アール」社長、奥谷禮子(おくたにれいこ)(58)は、初の女性会員の一人として知られる。

 神戸の星陵高―甲南大を経て日本航空の国際線客室乗務員から八二年に起業。米国で一時的にタクシー運転手をする弁護士と出会い「人材派遣」という新しい就労形態を知った。第二次石油ショックで合理化の嵐が吹き荒れた時代。「景気に応じて人材を機動的に確保する人材派遣の仕組みが必要だった」と創業の動機を語る。

 率直に物を言う性格もあって同友会でも存在感を発揮。宮内の総合規制改革会議に参画し、公立学校の運営見直しなどを主張した。

 「市場原理で競争しながら効率の高いモノ、良質のサービスを実現させるのが規制改革。結果平等から機会平等にし、努力した人に見返りがあってもいいのでは」

 星陵高で奥谷の一学年下に、人材派遣会社の草分けであるテンポラリーセンター(現パソナ)の創業者南部靖之(なんぶやすゆき)(57)がいる。

 阪神・淡路大震災では独自の復興計画を作り、神戸港でのクルーズ船運航や商業施設ハーバーサーカスを開設して地元を支援した。

 人材派遣、輸入化粧品の格安販売と、新しい事業にチャレンジするたびに阻まれ続けた厳しい規制の壁を一つ一つ乗り越えてきた。「規制を強化すれば、管理しやすい金太郎あめのような人間ばかりが生まれ、競争力をそいでしまう」

 昨年末、次女の米国留学を機に居を神戸に構えた。平日は東京、週末は夫婦とも神戸で暮らす。「神戸に腰を据え、関西経済の落ち込みにどう貢献できるか考えたい」

 〇二年一月、長期不況はついに底を打つ。改革は、格差拡大という負の側面を生む一方、景気回復を後押しした。直近では米サブプライムローン問題や急激な円高などで景気は減速しつつあるが、中国向けの輸出増も加わり、景気拡大は戦後最長の「いざなぎ景気」を超えた。(敬称略)

(経済部・大久保 斉)

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