川崎市宮前区土橋。今こそ都心から電車で30分の新興住宅街だが、半世紀前は50戸ほどの農村だった。その農家に生まれ育った著者は、幼いころから実家の土蔵の扉に貼られた1枚のお札が気にかかっていた。黒い獣が描かれ、祖父母が「オイヌさま」と呼んでいたあの紙切れは何だろう? 自分と地元とのつながりを見つめ直すため、ビデオ片手に古老を訪ね歩く謎解きの旅が始まった。
やがてそれは一編の記録映画となり、高い評価を得るに至る。本書はそこから生まれた旅の記録であり、丹精を尽くしたノンフィクションである。
お札は奥多摩の御岳山にある神社からもたらされていた。江戸時代から土橋の農民が1年の無事と豊作を願ってはるばる神社に詣でる「御嶽講」は、今も土橋で営まれていた。御嶽講に同行し、里びとを山へ導くために代々受け継がれた「御師(おし)」の存在を知る。この御師が御岳山から土橋の家々を訪ね、祝詞を上げてお札を配るのだ。丹念な取材の先にはやがて関東の山々に広がるオオカミ信仰が浮かび上がる。驚きと発見にいざなわれて、著者は里と山をつなぐ素朴な祈りの世界に足を踏み入れていく。
都会の中に今も息づく山岳信仰をたどる著者の探索行に付き合ううちに、首都圏のイメージは一変した。まるで柳田国男の世界ではないか。地域の風景は変わっても、土地に根ざした人々の心はしぶとい。昔から変わらぬ大事なものは、実は私たちの足元に眠っているのかもしれない。
(新潮社 1500円+税)=片岡義博
(2012/02/06 08:41)
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