三田

時計2016/1/7 05:30神戸新聞NEXT

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ボイラーに燃料の木をくべる足立隆義さん(左)と長男の隆之さん。重油で沸かす銭湯より「肌当たりが優しい」と評判だ=三田市三田町、しんち湯
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ボイラーに燃料の木をくべる足立隆義さん(左)と長男の隆之さん。重油で沸かす銭湯より「肌当たりが優しい」と評判だ=三田市三田町、しんち湯
終戦から約10年。1957年ごろの新地商店街=三田市三田町(市提供)
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終戦から約10年。1957年ごろの新地商店街=三田市三田町(市提供)
「三田藝(げい)者住吉踊」と題し、大正時代の絵はがきに掲載されていた写真。女性は新地の芸者たちだろうか=撮影時期・場所とも不明(三田市提供)
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「三田藝(げい)者住吉踊」と題し、大正時代の絵はがきに掲載されていた写真。女性は新地の芸者たちだろうか=撮影時期・場所とも不明(三田市提供)
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【ここに生きる】最後の銭湯、心癒やす

 けむる湯気。湯船に肩までつかった常連たちの頬が緩む。「たまらんなぁ」

 旧三田藩城下町の東端。いま地図にはないが、かつて「新地(しんち)」と呼ばれた界わいに、兵庫県三田市内で唯一の銭湯「しんち湯」はある。

 のれんをくぐって番台を抜けると、脱衣所には年代物の体重計。風情とぬくもりを守るのは、3代目の足立隆義(あだちたかよし)さん(63)、長男の隆之(たかゆき)さん(33)ら家族だ。父子は交代で釜場に入り、黙々とボイラーに薪をくべる。

 客は1日20~30人。経営は厳しい。でも「やれるだけやる。少しでも長く」。寡黙な隆義さんが語った。

 大阪・箕面から移ってきた隆義さんの祖父が創業した。番台には、開業年らしき「昭和9年」の棟札が残る。

 戦前、新地は「有馬温泉の裏座敷」といわれた花街だった。半径60メートルほどの小さな範囲だが、武庫川ほとりの路地に大小の料亭や料理旅館が軒を連ね、30~40人もの芸者が行き交ったという。芸者らを取り次ぐ置屋や検番もあった。

 戦後生まれの隆義さんは、その時代を知らない。だが「祖父は夜中まで営業するほど忙しかったそうだから、活気があったんでしょうね」

 戦後は規制も強まり、そうした店は次々に廃業。残った店も、小料理屋や旅館に看板を架け替えた。しばらくは繁盛したが、三田駅周辺の田畑が繁華街になると、にぎわいはそちらに流れた。13年前には新地を大火が襲い、商店会も解散した。

 銭湯にも逆風が吹く。半世紀前、市内に6軒あった銭湯は相次いで廃業。しんち湯も約3年前、だましだまし使っていたボイラーに限界が来た。

 入湯料420円の商売。数百万円かけてボイラーと煙突を新装しても、10年足らずで再び寿命が来るため、とても採算は合わない。「もう閉めようか」。何度も考えた。だが「ここがないと困る」という常連の顔が浮かび、続ける決断をした。

 一昨年の秋、開業80周年を迎えた。客に記念の手ぬぐいを配り、ささやかに祝った。

 2011年秋からは、銭湯の向かい側で隆之さんが理容室を営む。その2年前まで、隆義さんが電器店をやっていた場所だ。「少しでも銭湯経営の支えに」。新地に店が新規開業するのは、ずいぶん久しぶりだ。

 「商売にはならないけど、銭湯の灯を消したくない。今は親任せだけど、受け継いでいきたい」。父譲りの“口下手”を自認する4代目の隆之さんが、きっぱりと語った。(山岸洋介)

【歴史ありて今】花街の風情 記憶の中に

 花街としての栄華がしぼんだ戦後の新地は、人情味ある下町の商店街となっていった。

 豆腐屋や文房具店、理容室、精肉店や鮮魚店、履物屋…。店の奥には家族が住み、格子戸の家や長屋も並んでいた。近所としょうゆやみそを貸し借りする密接な生活空間が息づいていた。

 「昼間の路地に、三味線や琴の音がこだましてた」。新地の呉服店に生まれ、家業を継いだ水野宜子さん(72)は幼いころを懐かしむ。

 唄や踊りのお師匠さんになったり、大きな旅館の仲居さんになったり。芸者をやめても、女性たちは新地に生きた。水野さんも、そんな師匠に踊りを教わったという。

 新地近くの「浦町(うらまち)」と呼ばれた辺りで美容院を営む松本ゆかりさん(75)。「髪結いさん」だった祖母の代から、そこへ来るあか抜けた女性たちを見て育った。「整髪中に見とれてたら、よく『駄菓子でも買いな』って5円玉をくれました」

 年を取った元芸者たちは、ひっそりと浦町に暮らした。身寄りがなく、寂しい境遇の人も多かった。

 窓のない物置同然の三畳一間で寝起きしていた「こはやん」は、消えるようにいなくなった。やりての仲居で、大店の旦那の愛人だった「きみさん」も孤独な最期だった。

 おそらく若いころ、故郷から出て来た女性たち。「抜き差しならない家庭の事情があったのだろう」。松本さんは「みんな達観した雰囲気。ある種の潔さがあった」と語る。

 彼女たちがいなくなった昭和の終わりごろ、新地の懐かしい面影も消えていった。

 華やかだった新地の姿を伝える記録や資料は少ない。それは今や、人々の記憶の中にだけ存在する「失われた風景」だ。(山岸洋介)

【メモ】 新地は城下町の外縁にある田地だったが、農村からの人口流入で江戸時代の後半から明治期にかけて市街化した。1899(明治32)年に阪鶴鉄道が開通。三田は有馬温泉への玄関口となり、新地も有馬郡内で有数の遊興地となった。

 三田検番は戦争末期の1944(昭和19)年にいったん廃業し、52年に営業を再開。終末は定かではないが、市は「昭和30年代以降になくなったのでは」とみている。武庫川を挟んだエリアは北新地と呼ばれ、新地と一体的に繁栄した。

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