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五代友厚(国立国会図書館蔵)
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五代友厚(国立国会図書館蔵)
(写真説明)故山内順治さんの手記。「五代才助友厚」の記述がある=朝来市佐〓(注)〓は「嚢」の旧字
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(写真説明)故山内順治さんの手記。「五代才助友厚」の記述がある=朝来市佐〓(注)〓は「嚢」の旧字
1879年ごろの神子畑鉱山(写真集「生野銀山」より)
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1879年ごろの神子畑鉱山(写真集「生野銀山」より)
神戸新聞NEXT
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 明治時代、日本の近代化を支えた朝来市佐〓の神子畑(みこばた)鉱山で、「鉱山王」の五代友厚(1835~85年)が鉱脈探しを指示したとする記述が、地元の郷土史料に見つかった。従来、開発のきっかけとされてきた明治政府による銀鉱脈発見に先立つ時期となる。NHK連続テレビ小説「あさが来た」で俳優ディーン・フジオカさんが演じ、一躍注目を浴びる五代。その足跡は兵庫県内にも少なくない。(長谷部崇)

 地元の郷土史家、故山内順治さん(1881~1969年)が半世紀前に残した手記に「幕末から明治初期、五代友厚が…神子畑に採鉱跡があるのを知り、部下の加藤正矩に探鉱を命じた」とある。朝来市の郷土史料館「生野書院」の小椋俊司館長(74)が昨年9月、山内さんの孫隆治郎さん(71)から借りた文書の中から見つけた。

 戦国時代に栄えた神子畑鉱山は1878(明治11)年、明治政府が生野鉱山(朝来市)の周辺調査で鉱脈を再発見、再興したとされる。だがこの手記は「五代の指示で73年、探鉱が始まり、77年ごろには鉱石を生野に運んでいた」と記述。神子畑の主要鉱脈を擁した「加盛山」の名は「(探鉱した)加藤の加」から付けたという。

 山内さんは関係者への聞き取りなどで独自に調べたとみられ、加藤を案内した人物や作業員の宿までかなり具体的に記している。隆治郎さんが保管する別の手記には「(五代らが)神子畑を通る際、間歩谷(まぶだに=坑口跡が点在する谷)に着眼した」「加盛山の坑口は案内人が休みの日に見つかった」などとある。

 五代は幕末から鉱山業を富国策に掲げ、長年放置された鉱山から銀や銅を採る製錬技術を海外から導入、半田銀山(福島県)など鉱山の再開発を次々と手がけた。71(明治4)~74年には自ら全国の鉱山を調査している。

 大阪商業大経済学部の田崎公司准教授(日本経済史)は手記について「五代の経済思想や行動と照らしても違和感はなく、一定の説得力がある。生野鉱山の近くで休山状態の鉱山があれば、当然着眼したはず」と推測。「先見の明があり、誰よりも早く鉱山業に着手した五代の足跡がこのような形で残されていたのは興味深い」としている。

 ちなみに、朝来市はホームページにバナーを張るなど名前の似ている「あさが来た」をこっそり応援する。担当者は「自ら現場を歩き、実地調査に臨む姿と目利きの鋭さはディーンさん演じる五代像に重なり、びっくりぽん!です」と話す。

(注)〓は「嚢」の旧字

<故山内順治さんの手記抜粋>

 明治六年探鉱開始以来関係人物ニついて

(1)明治六年探鉱着手 加藤正矩以下 坑夫

(2)山案内 山内与三右衛門

(3)慶應明治初年 五代才助友厚 宍粟郡冨土野赤銅山経営の途 神子畑に旧坑あるを探知して部下加藤に命し探砿せしもの

(4)明治十年頃少量の砿石を牛にて背積けて生野鉱山へ納入せり

(5)明治十五年坑夫百人以上入山せり

(6)加盛山命名の由因ハ加藤の加を用ひたもの

 【五代友厚】 薩摩藩出身で幼名は才助。幕末に欧州各国を巡歴。明治政府の下で大阪府判事などを務めたが、1869(明治2)年、実業家に転身。半田銀山(福島県)や天和銅山(奈良県)など全国の鉱山を経営、「鉱山王」と呼ばれた。鉄道や紡績、製藍などの事業も手がけ、78(同11)年、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)を設立し初代会頭に就任。大阪経済発展の基礎を築いた。NHK連続テレビ小説「あさが来た」で俳優ディーン・フジオカさんが演じ、その人気ぶりから同番組中での死去に合わせて「五代ロス」という言葉も生まれた。

 【神子畑鉱山】 戦国時代に栄えたが、生野鉱山の繁栄に伴い休山。約300年後の1878(明治11)年、明治政府が銀鉱脈を発見、翌79年から本格的な採鉱を始めたとされる。鉱石を生野まで運搬する専用道路も造られ、最盛期は約3千人が働いた。閉山後の1919(大正8)年、明延鉱山(養父市)の鉱石を選鉱する「神子畑選鉱場」が建設され、規模、生産量ともに「東洋一」と称された。

     ◇     ◇

【生野に仏技師紹介、宍粟で銀山経営】

 五代友厚は、兵庫県内の鉱山にも広く関わっていた。明治期に栄えた県内の鉱山といえば、明治政府が最初に官営鉱山とした生野(朝来市)のほか、その支山の神子畑(同)、明治末期にスズ鉱が発見された明延(養父市)などが知られる。五代は生野鉱山でもフランス人技師を明治政府に紹介して近代化に貢献したとされ、産出される銀の輸出を政府に提言していた。

 山内順治さんの手記で、五代が経営しようとしていた「赤銅山」は、神子畑から約8キロ西、旧倉床(くらとこ)村(宍粟市一宮町倉床)にあった赤金山(あかがねやま)を指すとみられる。倉床には「昔、五代のことを知る女性がいた」と話す住民が今もおり、五代は鉱山経営の一環で宍粟を訪ねていたらしい。一宮町史によると、同町の鉱山の歴史は古く、産出した銅は奈良・東大寺の大仏建立でも献上されたとされる。

 1930年発行の「明治工業史鉱業編」は明治初期の全国的な金銀の産地として「播磨の倉床」を挙げ、「金の生産高は全国最多」としている。

 同編は民間の鉱山経営者の代表格として五代に言及。1873(明治6)年、大阪に全国の鉱山管理事務所「弘成館」を設立し、各地の著名鉱山を調査・開発したとしており、その一つに赤金山と同じ倉床村の「大立(おおだて)鉱山(銀山)」を挙げている。五代は79(同12)年から同鉱山を経営した。

 記録上、五代が赤金山を経営した形跡はないものの、大阪で交遊のあった「赤松力松」という人物が、記述の時期より後に赤金山を所有している。

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