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目をそらし続けていた…
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| 生田神社を歩く岡村欣一さん(右)と隆弘さん。除籍謄本によると、節子さんは本殿東側で死亡した=神戸市中央区(撮影・大山伸一郎) |
兵庫県立須磨友が丘高校の放送部員、千田理沙さん(16)と羽田野みゆきさん(16)は、空襲をテーマにした映像番組の案を練った。
知っていることは二つだけ。詩人たかとう匡子(まさこ)さん(66)の詩集「ヨシコが燃えた」と、放送部顧問の岡村隆弘教諭(45)に聞いた伯母の挿話だった。
岡村節子さん。当時二十二歳だった。一九四五年六月五日の空襲で、自宅に近い神戸・三宮の生田神社の防空壕(ごう)で焼死した。
岡村教諭は、亡き祖母に同じ話を何度も聞いたという。「節子がかばんを抱きしめ、勤め先の大事な書類が焼けなかった。職場の上司が遺体を見つけ、会社が葬式を出してくれた」と。
ところが、祖母の話には隠された部分があった。
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岡村教諭の父、欣一さん(80)=神戸市須磨区=は空襲当時、中国に出征していた。四六年五月、帰郷。自宅の焼け跡に、避難先を書いた木札が立っていた。
母が、やさしかった姉の死を伝えた。多くは語らなかった。「残酷と思って、私も聞かなかった」。何より、母と弟と三人の生活の立て直しが先決だった。
今年三月。欣一さんは息子の岡村教諭に誘われ、「神戸空襲を記録する会」の慰霊祭に初めて参加した。会場に、自分が知らない空襲直後の自宅周辺の写真が展示されていた。「年ごろだった姉の死が哀れに思えた。どんな最期だったか、掘り起こそうと思った」
欣一さんは、三重県に住む弟(75)に連絡を取った。弟は空襲の日、姉とはぐれた。きちんと話を聞いたことがなかった。
「あの日、避難しようとすると、近所の男が日本刀を抜き『逃げるな、火を消せ』と脅した。それで姉は逃げ遅れた。遺体は上司が見つけたが、私たち家族を探す間に消えてしまった。葬式はできず、墓には遺品のかばんだけ入れた」
姉の遺骨はなかった。
◇
欣一さんは終戦後、機械製作所で設計の仕事に就いた。さびた機械を塩酸で洗い、ひずみを直した。
働いて、働いて。子どもが独立し、一息ついたころ、再び大きな苦難に見舞われた。阪神・淡路大震災。
全壊した自宅の再建で、金策に走り回った。「公的な支援は金を貸すだけ。利子を取る。なんちゅう国か」と憤った。間もなく急性胃かいようで入院した。
九七年、妻が脳梗塞(こうそく)で倒れた。自宅で介護。七年の闘病を経て昨年、息を引き取った。
戦後六十年で直面した姉の死。「生活に追われ、恥ずかしいけど、姉のことから目をそらしてきた。どこで、どう死んで、遺体はどうなったのか。知りたい」
◇
岡村教諭は、伯母の遺骨がないと聞き、衝撃を受けた。「祖母はなぜ、ちゃんと話してくれなかったのだろう。葬式を出したことにしたかったのか」
六月五日。岡村教諭と欣一さんは「記録する会」主催の戦跡を歩く集いに参加した。欣一さんは、これまで避けてきた生田神社境内に、戦後初めて足を踏み入れた。姉が亡くなった防空壕の場所を知りたかった。
参加者の中に、須磨友が丘高校の千田さんと羽田野さんがいた。空襲体験者の声に耳を澄ませた。
いよいよ、撮影が始まった。
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