戦後60年 記憶を託すU

一つひとつの死 −高校生が撮った空襲−

 

.涙の訴え
(2005/08/24)

数字で伝わらぬ命の尊さ

 
 兵庫県立須磨友が丘高校の放送委員、千田理沙さん(16)と羽田野みゆきさん(16)は、空襲体験者のインタビューを中心に撮影を重ねた。七月末、テープは十一時間をゆうに超えた。

 大人たちは語りながら、涙を流した。インタビュー担当の千田さんも一緒に泣いた。「私たちが高校生だから、若い世代に伝えたいと、つらい話をしてもらえたと思う」

 映像記録の第一作は、詩人のたかとう匡子(まさこ)さん(66)=神戸市須磨区=を中心に約十二分にまとめた。話し合った結果、テーマは「空襲の恐ろしさではなく、命の大切さ」と決めた。

     ◇

 死者百七十三人。一九四五年七月三日深夜から四日未明の米軍による空爆被害を、姫路市はそう記録している。
 しかし、その空襲で亡くなったたかとうさんの妹、仁子(よしこ)ちゃんと酉子(ゆうこ)ちゃんは、その数に含まれていない。「二人の死を自分の責任とした父は、空襲での死亡と届けなかった。戦争で死んだと記録を残したくなかったのです」

 十年前、阪神・淡路大震災の焼け跡で、たかとうさんは空襲と同じ、焦げた臭いをかいだ。

 違和感も同じだった。被害の多寡が死者の数字で語られる。数字は数字でしかない。

 そして、震災後の「復興した」という声と、戦後の「平和になった」との世評。

 「本当に平和なのでしょうか」。たかとうさんは高校生に問いかけた。

 「残された者の悲しみは六十年経っても消えない。人間はそれぞれ名前があって、かけがえがない。『何千人の死者』と、ひとくくりにしてほしくない。一人ひとりの命を大切にしない社会に、平和はないと思います」

     ◇

 八月二十日、千田さんらは、神戸空襲を経験した評論家の内橋克人さん(73)に会った。「神戸空襲を記録する会」主催による講演会の後、会の代表を務める中田政子さん(59)の紹介で実現した。

 空襲の夜、内橋さんは盲腸で入院中だった。いつも避難する防空壕(ごう)に不発の焼夷弾(しよういだん)が突き刺さり、自分が座る場所にいた女性が亡くなった。自分の身代わりの死と受け止めた。

 当時を振り返り、内橋さんは「死にたかった」と漏らして、絶句した。千田さんも泣いた。

 「日本人はみんな誰かに身代わりになってもらい、戦争を生き延びた。一人として例外はない」

 この体験が内橋さんの生き方の原点になった。

 最初は被害者意識を強く持った。ずっと後になって、日本は米国より先に中国の重慶で無差別空爆を繰り返したと知った。「皆さんは、被害と加害の両方を見抜く力を持ってほしい」

 千田さんが質問した。「伝えたいことは」。内橋さんは「始まっていること」と答えた。

 「時代は今、曲がり角にきている。かつてと同じ愚かなことを繰り返しかねない、危うい時代を迎えようとしている。今、何が始まっているのか、敏感に察知してほしい。そして、声を上げる勇気を」

 懸命の訴えだった。

     ◇

 戦後六十年。高校生が空襲の記憶を撮った。ビデオテープを回し続けた羽田野さんは「中途半端にしたくない。まず自分がきちんと知りたい」と語るようになった。

 映像記録第一作。締めくくりにナレーションが流れる。「一人ひとりの命の尊さを伝えていきます」

 記憶を託す人、記憶を受け継ぐ人。私たちはスタート地点に立っている。

(宮沢之祐) =おわり=

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