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第5部 素顔 終戦直後の赤貧の時代。神戸市長田区の食肉処理場に、捨てられた牛の内臓を拾いにやって来る人たちがいた。在日コリアンの姿も多くあった。「これも生きるためだ」。そう言ってバケツいっぱい持ち帰った。主に家族で食べていたこのホルモンを後に売り物にしたことが、多くの焼き肉店の起源になっている。 長田区を中心として、市内に五軒の店を構える「元祖平壌冷麺屋」。酢の効いた冷麺のダシと焼けた肉のにおいが漂うこの店も、捨てられたホルモンを食材にしていた時期があった。平壌(ピョンヤン)から渡ってきた父の後を継ぎ、同店の一つを切り盛りする張元範(チャン・ウォンボン)さん(63)が、まだ小学生だったころだ。 「ジューッ」と肉の焼ける音。自宅の台所で、元範さんのオモニ(母親)がキモやシンゾウをいためる。客席は自宅の居間。「うまい」と日本人客。余ったホルモンを冷麺のおまけとして出したのが評判になり、メニューに加えた。 一九五〇年代初め、店舗を構えて本格的に商売を開始。固定客も付き、経営は波に乗り出した。しかし、今のようにだれもが焼き肉を食べる時代ではない。元範さんは振り返る。 「通っていた日本の学校で、『ニンニクはバキュームカーより臭い』とか言われてね。つらかった」 ◇ ◇ ◇ 六〇年代、焼き肉は少しずつ日本人に浸透していった。八〇年代初めには無煙ロースターの登場で若い女性客の姿が増え、八八年のソウルオリンピックのころを境に、日本人も日常的に口にするようになった。 人気が高まると、「食べ放題」を売り物に大型店を出す日本企業が現れ、脅威になった。だが元範さんは「僕らの食文化が日本の社会に認められた証拠。あとは味の勝負です」。一種類だったタレを、五年前から四種に増やし、注文に合わせて調合もするようになった。 ◇ ◇ ◇ 日曜日、込み合う店内。「ロース二人前」「ビールもう一本」と声が飛ぶ。 取り仕切るのは元範さんの長男、一成(イルソン)さん(31)。一七〇センチ、八三キロのがっちりした体で、早朝の仕込みから夜のレジ締めまで、休む間もなく働く。 焼き肉は日本社会に定着した。しかし一成さんはそれだけでなく、朝鮮料理のメニューを増やし、多くの日本人に楽しんでほしいと考えている。「食」を通じて朝鮮半島の風土を感じ、関心を持ってもらいたい、と。 「いつか自由に往来できる日が来たとき、朝鮮料理が広まっていれば、『本場でグルメを楽しみたい』と現地を訪れる人も出てくるでしょう。僕の作る料理で友好の輪を広げたい」 蒸し返るちゅう房で、流れる汗もぬぐわず、熱く語った。 (掲載日:2000/08/26) |
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