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“封印”解かれた信時潔 初の伝記やCD発売
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2005/12/15 戦後六十年の今年、各分野で多くの総括がなされた。クラシック音楽では、戦時下の創作活動が“封印”されてきた作曲家・信時潔(のぶとききよし)にスポットが当てられたことに注目したい。戦前は、山田耕筰と並び称された大御所だったが、代表曲「海ゆかば」が旧日本軍の玉砕を伝えるラジオ放送に使われたため、戦後は作曲家としての業績に触れられることもほとんどなかった。そんな忘れられた作曲家の伝記が初めて出版され、「海ゆかば」の歌唱や演奏を集大成したCDが二種も発売された。くしくも没後四十年、評伝と残された音から信時と「海ゆかば」の意義を考えた。(編集委員・山崎 整) 「海ゆかば」の作曲家/没後40年 進む見直し ■大阪の牧師の子 信時は一八八七(明治二十)年十二月、大阪に牧師の子として生まれ、京都などで育った。賛美歌を通じて音楽に目覚め、大阪府立市岡中(現高校)を経て東京音楽学校(現東京芸大)でチェロと作曲を専攻。一級上に山田耕筰、一級下に唱歌「牧場の朝」の作曲者・船橋栄吉らがいた。 音校でヴェルクマイスターとユンケルに師事、ドイツに留学して作曲を学んだ。一九二三(大正十二)年に帰国後は同校教授として下総皖一(しもふさかんいち)、橋本国彦、諸井(もろい)三郎らの作曲家を育てた。一九三二(昭和七)年に退官後は講師・作曲家として活躍。「西洋音楽の古典」と「日本の古典文学」との融合を生涯の課題とした。 ■重厚な和音 そんな創作姿勢通り、作品は重厚な和音に支えられた雄渾(ゆうこん)な旋律と明快なリズムが特徴だった。ところが、信時が作曲に専念し始めたころから国際情勢は刻々と緊迫し始めた。一九三二年三月、満州国が建国宣言。翌年には日本が国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラーが首相に就任した。 三七(同十二)年七月、日中戦争を契機に国民精神総動員運動が始まった。この運動を広く知らせるNHKのラジオ番組「国民朝礼ノ時間」のために信時が作曲したのが「海ゆかば」だった。 十月十三日から一週間、朝夕二回、児童や成人の合唱団数団体が交代で生放送。ただし初日朝は、講話が長引き歌われなかったとの説もある。 ■賛美歌と誤認 翌十一月には、楽譜が全国の小学校に配布され「国民歌謡」としても放送された。翌三八年、市販譜やレコードも発売されたが、思惑通りには普及しなかった。 その証拠として興味深いエピソードがある。「海ゆかば」のメロディーが取り入れられた映画を試写会で見た映画評論家が賛美歌と勘違いしたとの話である。それほど、まだ曲が知られていなかった証しだが、「先入観なく純粋に音楽として聴いた感想」として貴重だ。 ■天上的な美しさ 音楽史研究家・郡修彦(こおりはるひこ)さんは「賛美歌的な主旋律に伴奏の和音の絶妙な調和が天上的な美しさを醸し出している」と表現。一方、評論家・片山杜秀(もりひで)さんは、音階構造から「西洋と日本の伝統が共に息づく旋律線を持った歌で、『近代と混交した日本』の向こうに懐かしくも垣間見える『純正日本』を拝んで、背筋を伸ばす歌」と位置付ける。 四一(同十六)年、太平洋戦争に突入後、大政翼賛会が国歌に次ぐ「国民の歌」に指定、一気に知られるようになった。しかし、勇を鼓舞する本来の意図から離れ、「大本営発表」で玉砕を伝える際に決まって流されたことが、今日「海ゆかば」を専ら「鎮魂歌」と受け止められるようになった要因とされる。 ■「海道東征」 信時は戦時中、もう一つの代表作、交声曲「海道東征」(北原白秋作詞)を書いている。日本書紀に見える神武(じんむ)天皇の東征神話を壮大な管弦楽伴奏の合唱曲に仕立てた意欲的なカンタータだ。 紀元二六〇〇年奉祝曲だったことも影響し、ごく一部を除くと長く演奏もレコード化もされなかったが、三年前、京都のローム音楽財団により戦前の演奏がCD復刻、ようやく封印が解かれた。 没後四十年近くもたってから戦前の業績が認められた形だ。だが戦後、信時自身の手が封じられたわけではなかった。新憲法施行に伴う記念歌「われらの日本」(土岐善麿(ときぜんまろ)作詞)のほか、全国の校歌や自治体歌などを計千曲以上も作曲した。 ■神戸高校校歌も 神戸新聞の連載「学舎(まなびや)のしらべ」でも県立神戸、長田、赤穂、佐用、三原高のほか三木市立三樹小や加西市立北条小などの校歌が確認できる。いずれもリズムの変化を極力抑えた厳かな曲調に信時らしさがうかがえる。 戦前の「海ゆかば」は国家総動員運動の主題歌から、やがて鎮魂歌へと性格を変え、終戦を迎えた。戦後の信時は、次々と舞い込む作曲依頼に忙殺されながらも、日本の伝統に根ざした創作を続けた。歌曲・合唱曲集「女人和歌連曲」を遺作に、精神的よりどころであった楽劇「古事記」の完成を果たせないまま一九六五(昭和四十)年、七十七歳で亡くなった。 「音楽は野の花のごとく自然に素直に偽りのないこと」と語った作曲家・信時潔を貫く信念は、言葉通り、政治体制にかかわりなく生涯変わることはなかった。二枚のCDに集められた計三十種を超える「海ゆかば」を聴いての結論である。
伝記本と2つのCD 文芸評論家・新保祐司著「信時潔」(構想社刊、1995円)は初の本格的伝記で、孫の信時裕子さん作成の年譜も充実している。 CDは、キングレコードの「『海ゆかば』のすべて」と、2005海行かば集製作委員会が編んだ「海行かば集」。両CDともに収録しているのは、奥田良三、柴田睦陸、藤井典明らの名唱のほか、物語作品に残る伝説的名アナウンサー和田信賢、竹脇昌作のナレーションなど。 キング盤が戦後の録音も数点入れているのに対して、製作委盤はすべて戦前のオリジナル音源にこだわり、解説も歌が制定された当時の視点で書かれているのが特徴。 キング盤は3150円で市販中、製作委盤は送料込み2300円を定額小為替で郡音楽事務所(〒187―0045東京都小平市学園西町3―16―3、TEL042・342・2003)へ。 原詞は聖武帝の宣命 曲は計6種 ■ルーツ 「海ゆかば」のルーツは七四五年、東大寺・大仏のめっき用金鉱が陸奥(むつ)国で見つかったのを喜んだ聖武(しようむ)天皇の宣命(せんみよう)の一部。 大伴(おおとも)、佐伯両氏の代々にわたる功績をたたえた部分を、後に大伴家持(やかもち)が改変して長歌に詠んだものが「万葉集」にある。 宮内省雅楽局の篳篥(ひちりき)奏者・東儀季芳(とうぎすえよし)が一八八〇(明治十三)年に海軍省からの依頼で礼式曲として作曲。これを三年後、保育唱歌にも編入。一九〇〇(同三十三)年ごろ瀬戸口藤吉(とうきち)が自作の「軍艦行進曲」のトリオ(中間部)に取り入れた。 東儀の曲とは別に一八八五(同十八)年ごろには陸軍軍楽隊長・古谷(ふるや)弘政作曲と伝える軍歌も作られたが、ほとんど歌われなかったらしい。 このほか陸海軍の信号ラッパ曲が三曲あり、最後に作曲された信時作品を含めると「海ゆかば」は計六曲にも上る。 |
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