「私たちはこの街とともに育った」と話す岩崎さん一家=神戸市灘区摩耶海岸通(撮影・宮路博志) |
それは、一月十七日の恒例行事になっている。
HAT神戸灘の浜の復興住宅で、岩崎彰子(あやこ)さん(40)は今年も、小学校から帰ってきたわが子に語り掛けた。
「地震は怖かったけど、お父さんとお母さんが生きて出会えたから、あなたたちに巡り会えた。命に感謝しないとね」
そして、ぎゅっと抱きしめる。テレビは、白煙が上がる十三年前の街を映していた。
阪神・淡路大震災で神戸市中央区の実家は全壊。仮設住宅にいたころ、当時は大学院生の優治さん(35)に出会った。優治さんも東灘区の下宿先が全壊し、仮住まいだった。
一九九六年八月八日の大安に結婚。お互い余裕がなくて披露宴は先送り。日取りだけでも晴れやかにしたかった。
1Kの狭い仮設住宅で新婚生活が始まった。翌年、長男の凌雅(りょうが)君(10)が誕生。ベビーベッドがなく、半透明の衣装ケースにバスタオルを敷いて寝かせた。九八年春、街開き直後のHAT神戸に移った。長女穂佳(ほのか)ちゃん(7つ)、二女菜加(なのか)ちゃん(2つ)に恵まれ、にぎやかな家族になった。
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引っ越してきたころ、子育て世代はほとんど見当たらなかった。彰子さんは玄関ドアを開けたまま家事をし、子どもの声が聞こえると、凌雅君を抱いて階下に急いだ。あちこちの公園に時間をずらして出掛けたが、友だちはできない。外に出るのが苦痛になり、気付けばベランダでぼんやりしている自分がいた。
仲間ができたのは、九九年の春に子育てサークル「ぱんだっ子クラブ」をつくってからだった。復興住宅の親子二十組が集まり、一緒に遊べるようになった。
やがて、震災一色だった街は、違ったイメージを持たれるようになる。海側に家族向けの分譲マンションが次々と建ち、病院やショッピングセンターもできた。いつしか、「子育てしやすい街」と言われるようになっていた。
街開きと同時に七十人で開校した市立なぎさ小学校は、この数年児童が百人単位で増えている。八百人を超えた昨春、プレハブ校舎が建った。二〇一〇年度には約千二百人を見込み、国の区分では「大規模校」になる。
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ぱんだっ子クラブも一時、百人の親子であふれた。大半がマンション住民で、彰子さんら震災体験者は少数派になった。
参加する三ツ野真理さん(29)は四年前、分譲マンションに入居した。奈良県出身で震災当時は高校生。「世代とか、震災を知っているとか関係なく、みんなで過ごしやすくできれば」といい、復興住宅の催しにも二歳の娘を連れて顔を出す。
十年で変ぼうしてきたHAT神戸。「ここは、子どもにとってはふるさとになる」と優治さんや彰子さんは話す。成長して出て行っても帰りたくなる。そんな街にしたい。
昨年十一月には、小学生の下校時に住民が街頭に立つ防犯活動が始まった。復興住宅のお年寄りが旗を振る。「気を付けて帰りよ」。子どもたちのはしゃぐ声が潮風に溶けていった。
=おわり=
(この連載は石崎勝伸、中島摩子が担当しました)
(2008/01/19)
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