タレント 間 寛平さん 
 
味わい失った街に寂しさ/悔いなく生きなあかん (2004/10/13)

はざま・かんぺい 1949年、高知県宿毛市生まれ。70年に吉本興業に入り、舞台、テレビ、CMなど多方面で活躍。99年に上方お笑い大賞を受賞。現在のレギュラー番組は5本。ランナーとしてもスパルタスロン(約245キロ)などに挑戦。宝塚市在住。

 ―地震があった朝は?

 前日は、宝塚市の自宅で、嫁さんと中学三年だった長女の誕生日パーティーをした。二人とも一月十五日生まれ。一日遅れだったけれど、酒飲んで、盛り上がって、最高の気分で布団に入った。

  数時間後、ドカーンときた。僕は一階、嫁さんと子供二人は二階で寝てた。下からドーンと突き上げられて、めちゃめちゃに揺れた。たんすもテレビも飛んだ。壁はゆがみ、階段はぐちゃぐちゃ。夢か現実かも分からず、その時は「怪獣が出てきたんや!」と思っていた。

  揺れが収まった直後、ぼう然としていると、二階から「あんたーっ、子ども連れに来てーっ」と嫁さんの大声が聞こえた。急いで上がり、高熱で寝込んでいた中学一年の長男を抱えて降りたけれど、状況が分からない。長男に「動くなよ」と言い、階段の下で二人でじっと座っていたら、今度は嫁さんに「何してんのっ、はよ逃げなっ」と怒鳴られ、やっと我に返った。裏庭から外に飛び出し、隣の公園に避難した。

 ―自宅周辺の被害は大きかった。

 犬の鳴き声や女性の叫び声が飛び交い、家は軒並み崩れていた。「ただ事やない」と血の気が引いた。

  うちも全壊。家族にけがはなかったが、近所の人や長男の同級生が亡くなった。子どもたちはショックでしばらく落ち込んだけれど、立ち直りは早かった。嫁さんも「くよくよしても仕方ない」と前向きだった。やっぱり女の人は強いなぁ。僕が一番弱い。地震はいつ、どこで起きてもおかしくないと思うようになり、ホテルに泊まる時は、まず避難経路を確認するのが癖になった。

  自宅建て替えのため、近くのマンションに一年ほど仮住まいした。二部屋しかなく不便だったが、狭い家の中で家族が身を寄せ合うように暮らした一年間は、前よりきずなが深まるきっかけになった。

 ―テレビの番組で被災地からレポートしたことがあった。

 震災の半年後、神戸・長田の商店街や芦屋のマンション、仮設住宅などを取材で回った。元の家から遠い仮設で、友達と離れて寂しがってるお年寄りもいた。それで、気力がなくなっていった人も多いだろう。東京からの取材に「どうですかって聞かれても、心がこもってへんのが分かる。面白がってるんか」と怒ってる人もいた。僕は同じ被災者として、気安く声を掛けられた。

  「これからどうしよう」「なるようにしかならんで」…。一緒に炊き出しを食べながら、いろんな声を聞いた。僕は若いし、仕事もあるし、生活を立て直せる。なのに、家を失い、年金暮らしで一から再建もできなくなった人から「寛平も大変やなあ。頑張りや」と励まされた。返す言葉がなかった。あの時会った人たちは、どうしているだろうか。

 ―十年間を振り返って、何を思うか。

 街が変わってしまい、寂しい。自宅の最寄り駅前にはマンションが建ち、仲良しだった駅前商店街のおっちゃんやおばちゃんとも、前ほど会わなくなった。(神戸の)長田も面影がなくなり、震災前にあった市場や、そこに買いに行ってた長屋や下町の人もいなくなった。街に味がなくなってしまった、と感じる。

  僕の仕事は「笑い」を提供すること。被災地の役に立てるなら、老人ホームでもどこでも行こうと思う。でも、自分はどちらかといえば、被災者側の気持ちで過ごしてきた。震災直後、泉谷しげるさんたちが神戸でコンサートを開いてくれ、すごくありがたかったのが忘れられない。

 ―震災を経た人生観は?

 先日も自宅にいる時、地震があった。同居している義母は、震災を思い出したのか、パニックになっていたが、僕は「まだ花瓶が倒れてへんなぁ」となぜか冷静だった。震災を体験して以来、覚悟を決めるようになった。それまで、何かあっても「何とかなる」と思えたが、「どうにもならんこともあるんやな」と。だから、ずっとこう思っている。「一日一日を悔いのないよう、楽しく生きなあかん」と。

 

被災した人々と思い共有

 番組収録の合間、楽屋を訪ねると、黙々とポスターにサインを書いている最中。隣では、マネジャーの携帯電話がひっきりなしに鳴っていた。多忙ぶりを目の当たりにし、遠慮ぎみの私たちに「もう十年やなあ」と切り出したのは寛平さんの方だった。

  芸人魂をのぞかせ、時折、会話に「笑い」も交える。でも、「(自宅は全壊したが)一年前にリフォームしてたから、命が助かったんや」と恐怖を語る表情は真剣で、こちらも緊張を覚えた。

  吉本興業の芸人仲間も、震災を体験した人は少なくないという。復興への支援に「ほんまにうれしかった」と繰り返し、「大変やったけど、俺ら関西人やから頑張ってこれたんやで」と振り返った。終始、被災地の人々と思いを共有する姿勢を感じた。(社会部・宮本万里子)

 
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