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作家・小松 左京さん |
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| 阪神・淡路大震災の被災地は、あの日から五年目を歩む。わずか十数秒の揺れで崩された日常。厳しい現実に向き合う中で、見えてきたことがある。それは、日本という国のありよう、人間の生き方とも重なる。被災地を見つめ続ける各界の人々に語ってもらう。まず、神戸を愛し続ける作家、小松左京さんから。 | |
震災後、被災地に向かうタクシーの中で、ラジオからポルトガル語が聞こえてきた。神戸のFM局。「さすが神戸だ」と感じた。 近代の神戸は、日本人だけでつくった街ではない。第二次大戦中の、こんな逸話がある。神戸に住む外国人が、ルーズベルト・米大統領に手紙を書いた。「こんなに暮らしやすい街はない。神戸を爆撃しないでほしい」と。外国人に愛されてきた歴史が、震災後のラジオにも息づいていた。 しかし、水害、空襲、震災と、幾度も大災害に遭遇してきた神戸は、その歴史を後世に伝える努力をしてきただろうか。経験が眠ってしまってはいないだろうか。災害の体験を社会の共有財産にするために、一人ひとりが語り続けていくことが最も大切だと思う。 ベストセラー小説「日本沈没」から二十六年。高速道路が倒れ、ビルが傾き、街が火の海となる架空の光景は、四年前の阪神・淡路大震災で現実となった。小説は再び出版され、読み返されている。大都市での災害のすさまじさを予測した作家は、目の前に突きつけられた現実をどう見たのか。阪神間で育ち、神戸で学んだゆえに、被災地の将来にはとりわけ熱い視線を注ぐ。 九五年の一月十七日は、箕面市の自宅の二階にいた。突き上げるような揺れ。ライフラインは大丈夫だったが、部屋は本とビデオの海になった。「日本沈没」のこと? そりゃ、頭に浮かんだ。テレビに映し出される神戸の状況を見て、腰を抜かした。高速道路が倒れているんだから。 二十年以上も前、その光景を自ら描いたのに? 「日本沈没」を書いた後、耐震工学の専門家から人づてに指摘された。「高速道路が倒れるはずはない」と。自分でも、実際にその場面を見るとは思っていなかった。それに、リアルタイムで大地震に遭遇したのは初めて。自分の家では、東西方向の本棚が倒れて南北は大丈夫だったのに、二キロほど先の弟の家は、まったく逆。初めて見る不思議な現象だった。 「日本沈没」では、地球物理学、地震学などの分野の詳細な記述が並ぶ。災害への関心はどこから生まれたのか。 私の母は、関東大震災に遭い、大阪に移り住んだ。幼いころ、震災の怖さを母のひざの上で聞かされた記憶がある。「炊き出しの人がとても親切にしてくれた」なんていう思い出も話してくれた。 家族で大阪から夙川(西宮市)に引っ越した後、三八年には阪神大水害を経験した。うちは、床上浸水。家から水をかき出すのを手伝ったり、井戸に水をくみにいったり。芦屋川や住吉川に、大きな石がごろごろ流れてきて、山津波の恐ろしさを焼きつけられた。 そして、戦争。神戸は大空襲を受けた。 四五年。小松さんは神戸一中の学生だった。 当時は今津(西宮市)に住んでいて、勤労奉仕で神戸の川崎重工に通った。空襲で鉄路がやられ、何時間もかけて歩いて西宮まで歩いた。炭のようになった死体の後片付けをしたこともある。「戦争って一体、何なんだ」と考えた。 水害、空襲、そして震災。神戸の街は、壊滅的な被害を何度も受けてきた。 そうです。しかし、その経験が眠ってしまっている。 災害の記録は、後世への財産として伝えていかなければならないが、大災害の場合、外部から状況をつかもうとすると、発生後一週間から一カ月かかる。その間に、小さな被害はすべて片付けられ、全容は見えなくなる。だからこそ、当事者による生きた記録が重要になる。写真や録音なども含め、「災害ライブラリー」として残すべきだ。そうした体験は、公式の記録には残らない。 小松さんは「大震災’95」と題する一年間の新聞連載で、被災地をくまなく歩いた。まさに、震災の全ぼうを見極めようとする取り組みだった。 「今度震災があったら、どうするのか」を考えなければならない。県、市、警察、消防、自衛隊、マスコミ。すべてが、震災を語り続ける場を持つべきだ。例えば、神戸新聞は京都新聞と協力して新聞発行を続け、災害時に「ローカルセンター」がいかに重要かということを示した。その体験は、市民と共有されなければならない。 学問でも、分野を超えた「総合防災学」の確立を提唱されている。 一部では取り組みが始まっているが、自然科学系だけでなく、社会学、経済学などあらゆる分野の垣根を超え、学際的な研究体制を作るべきだろう。分野にこだわる「アカデミック官僚主義」は捨てなければならない。 阪神大震災は、終戦からちょうど五十年。戦後の日本のシステムがきしみ始めた時期に起きたという点にも、小松さんは注目してきた。 「日本沈没」を書き始めたのは、六四年。名神高速道路が開通した年。日本は、高度経済成長時代に突入した。 その一方で、日本は災害列島であるという現実は、忘れられてきた。 最近、こんな話を聞いた。江戸の町では大火の際、逃げる道筋が決まっていたという。それは、みこしを担ぐのと同じ道。幼いころから体で覚えたルート。昔の方が、自主防災のシステムはよくできていた。 神戸は、災害の被災者がまつられている「山」の存在を忘れてきた。洪水で山が崩れた時、重要な道となる「海沿い」をも軽視してきた。大震災はそこに、警告を発したともいえる。 被災地のこれからに、何を望むか。 二十一世紀にかけての神戸の未来図は、大修正されるべきだろう。実用性だけを追うのでなく、自然に対する畏敬(いけい)の念を持つ。そうすれば、もっといい街になる。「災害」は自然の一部だということを、忘れてはならない。 神戸は、日本人だけがつくったのではない、と言った。だからこそ、世界中から愛される街になってほしい。 | |
| こまつ・さきょう 本名・実(みのる)。1931年、大阪市生まれ。幼少年期を西宮市で過ごした。神戸一中(現・神戸高校)を経て、京都大学文学部卒業。「地には平和を」で作家デビュー。73年、SF小説「日本沈没」がベストセラーとなり、日本推理作家協会賞受賞。「首都消失」で日本SF大賞。その他の代表作に「日本アパッチ族」「復活の日」など。大阪芸術大学教授を務めたこともある。大阪で開かれた「国際花と緑の博覧会」総合プロデューサー。96年、「小松左京の大震災’95」を出版した。箕面市在住。 | |
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■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 「視点の奥深さ」 少し早めに待ち合わせの場所に着くと、小松さんはシェリー酒を手に座っていた。大阪の街を見下ろすビルの上。 「関西」の香りに、全身包まれたような人だ。神戸、阪神間への愛着が、言葉の端々ににじむ。街の歴史を語る時、その知識の豊かさと深さに圧倒される。震災だけを見つめるのではなく、神戸、阪神間の長い歴史の中で、この災害がどういう意味を持つのかを教えられた。 「日本沈没」に着手した一九六四年、日本は豊かさを求めて走り始めていた。その国のありように、漠然とした危機感を抱いた。「伝統と豊かな自然と近代文明のバランス」が崩れそうな不安。しかし日本は、そのバランスを崩してもひた走り、そこに震災は起きた。 忘れないこと。それが、原点。防災の思想も、研究の次のステップも、情報の集積からしか生まれない。小松さんはそう説く。関西はその原点を忘れてきた。歴史の中ではぐくまれた「災害文化」は途切れていた。「文明がいくら進んでも、災害は必ず来る。この列島に住む限りは」。大震災の被災地で過去、いくつもの災害をくぐり抜けてきた視点が、そこにある。 (磯辺 康子) | |