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浄土真宗本願寺派総長 ・ 豊原 大成さん
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| 知恵出し合い混迷脱却へ 人間の思想は、その人に到達した情報の量や強さで決まる。例えば肉親の死という強い「情報」により、人生観は大きく変わる可能性がある。 仏教が世の中にできることは何か。それは「慈悲」の心だ。私自身、家族を失い、寺の勤めを果たすにはよほどしっかりしないと、との思いは強かった。涙が出そうになっても、できるだけ感情を抑えていた。ただ何かの拍子でその平静さが崩れ、涙があふれ出そうになる。私にとって「諸行無常」は、いわば建前。涙こそが本音。今も、その間を行きつ戻りつしている。 家族がいる者と孤独な者との精神的な差について考え、家族の大切さを訴えていく必要がある。宗教者はその役割を自覚し、人々の心の領域へ情報発信しなければならない。
「死んだのか」と聞くと「はい」と答えた。「三人ともか」と、さらに尋ねると、「そうです」と。その後、本堂に安置された三人と対面した。大変深い衝撃を受けた。 娘は、これから結婚も考えていた。本当にショックだった。寺の一人娘として生まれたことで、彼女の人生を縛り付けていた面がある。妻が二十年来、関節のリウマチを患っており、その介抱もしなければならない…と、私が引き留めていた気もする。娘の幸せを心から願っていただけに、できることなら、私が代わって死に、彼女を生き返らせてほしい。その思いは、今でも強い。
仏教の教えで「諸行無常」というが、避難所では、肉親を失って黙り込む人、自らの被災状況を興奮状態でしゃべり続ける人など、実にさまざまだった。私自身が逆に慰められた。
要求ばかりせず、自ら問題を解決する。この気持ちが人間の原点。人間とは何か、生きるとは何か。もう一度考える必要がある。
社会状況が変化し、今は宗教とふれあう機会が乏しい。何か不安や悩み事があって、「救ってやる」とか言われるとそちらへ流れてしまう。宗教が見返りを求められる対象になってしまった。それも、免疫性がないから。「現世利益」は、あくまで心の問題だ。
私は復興にあたりながら、仏教の復習をする思いで古典や経典を読み返してみた。昔の人々は何を考えていたのか、古典がなぜ何百年も受け継がれてきたのか。それぞれが一度考えてみてはどうだろう。
いま寺は、末弟夫婦が世話してくれている。彼らがいなければ、自動車の洪水の中で一人自転車をこいでいるようなものだ。生活の多くの部分は、実は他者によって支えられているということを痛感している。
宗教とは、物理的にどうにもならない悩みを、心の領域で解決する営みだと言える。震災によって愛する人や家を失った私たちは、心の領域を真剣に見据えながら、今後の復興に取り組むべきだろう。 舞い落ちたイチョウが広壮な境内を黄色に染める。 京都・西本願寺。 全国に末寺一万、門徒一千万人。浄土真宗本願寺派の“総理大臣”の重責を担う人とあって、強烈な個性を持った人物像を勝手に想像していたのだが、寡黙で実直な人柄に引き込まれた。「まじめで学究肌」が周囲の評、というのもうなずける。 取材では、宗教の果たすべき役割などを指摘する一方、話題が肉親の死におよぶと、一人の夫として、父として悲嘆と悔恨の念を隠さなかった。特に一人娘だった真利さんの思い出を語る時の、愛情と寂寥(せきりょう)感あふれる語り口には今も癒(いや)し切れない、遺族の深い悲しみをあらためて感じた。その苦悩の表情には、俗にまみれた“教祖”らが吐くどんな言葉よりも説得力がある。 豊原さんは最近の日本人について「品や品格を言わないのが残念だ。何も語らずとも、ただいるだけで、行動するだけで、心を発揮する。そんな民族性を回復してほしい」と話した。 震災から間もなく五年。復興の街や人々の心に「品」は感じられるか。重い問いかけだった。
記事・長沼 隆之
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