鉄道の役割を再認識
忘れてはならない犠牲者の無念さ
阪神・淡路大震災での復旧工事の際は、近隣の方々にご迷惑をかけることが多かったが、地域ぐるみの協力を得て予定より早く全線開通できた。ライフラインとして、都市の動脈としての鉄道を市民が再認識したのだと思う。ただ、年月を経るにつれて企業と地域との接点が、希薄な方向に戻りつつあるようだ。
復興の基本は「初心忘るべからず」だ。震災は六千四百人もの命を奪った。犠牲者の無念さを常に思い起こす。この思いが胸にあれば、駅の改修やビル建設にしても、バリアフリーはもちろん、都市の活性化に何が必要かを常に考えてやろうとなるはず。復興はハードを整備すれば終わりではない。今後も無念さを胸に、市民や行政、企業が、復興への強い意思を持続させていくことが必要だ。
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震災後、ライフラインという言葉が盛んに聞かれた。何気なく利用している鉄道もその一つだと、私たちは痛感した。被災地をネットワークし、独自の沿線文化を発信してきた阪急電鉄も甚大な被害を受けた。当時、社長として復旧・復興を陣頭指揮した菅井さんの目に、被災地の惨状はどう映ったのか。
自宅にいた。すごい衝撃だった。電話が不通だったので、最寄りの仁川駅まで歩き、鉄道電話で連絡したが、「状況がつかめない」との答えだった。歩いてでも出社しようとしたら、担当の運転手が迎えに来た。
道路事情が悪く、行きつ戻りつ手探りで大阪・梅田の本社へ向かった。偶然、伊丹駅の近くを通ったので立ち寄ったら、駅舎が崩れ落ちていた。壊れた駅や電車をしばらくぼう然と見ていたが、震災を契機に、会社をジャンプ・アップさせようと思った。ちょうど二十一世紀へ向け、会社の改革を考えていた。鉄道と不動産業だけではもう立ち行かない。少子化や社会の多様化などで乗客数にかげりも見えていた。「よし、やろう」と決意すると、少し気が楽になった。
復旧工事は、まさに不眠不休。沿線住民の協力も得て、予定より早く、震災の約五カ月後に全線開通にこぎつけた。
本社に着いたのは午前十時ごろ。最初は、神戸、宝塚、京都線すべてがやられたと覚悟した。運輸担当者に指示し、関連会社のヘリコプターで全線を上空から撮影した。被害状況はその日のうちに大体つかめた。長引くな、と思ったのは、西宮北口―夙川間の高架橋倒壊と、岡本―御影間の擁壁の傾斜・亀裂だった。
工事に際しては、近隣の方々にご迷惑をかけることが多かった。私も現地に出向いたが、地域ぐるみで応援していただいた。当時は騒音や振動が出ようとも「早くやれ、徹夜でやれ」と逆に激励を受けるなど、近隣住民の協力で全線開通を予定より早めることができた。ライフラインとして、都市の動脈としての鉄道の存在を、お客さまが再認識されたからだろう。
全線開通の日、夙川駅の神戸寄りの築堤上で、幼稚園児が「阪急電車、ありがとう」と書いた紙を振ってくれた。最初に通った運転士は涙が出た、と語っていた。私も、あの日の感激を今も忘れられない。
あと、時間はかかったが、超高齢社会を控え、伊丹駅の復興に際しては駅全体をバリアフリー化し、地域の方々にも喜んでもらえたと思う。
危機管理が問われた。震災から五年半余り。教訓は生かされているか。
震災前も各現場で危機管理的な規則などは備えていたつもりだったが「絵に描いた餅(もち)」だった。震災の経験を踏まえ、一年半かけて見直した。
鉄道各社の連携も貴重な経験だった。直後は、各社が行ける駅まで開通させ、バスでつなぐ。自然に「やりましょう」となった。その後、私鉄間で共通で使えるプリペイドカード「スルッとKANSAI」の導入にもつながった。
痛感したのは道路事情の悪さだった。資材や人員を運ぼうにも大渋滞。規制情報も流れず、復旧の遅れにつながった。兵庫県だけでなく、広域連携で道路規制など情報を一元化してきちんとやるべきだ。関経連では「災害情報管理センター(仮称)」の設置を提言したが、今後も取り組むべき課題。機会があれば提言していきたい。
被災地の経済復興の現状をどう見るか。
神戸には阪急もターミナルを持っているし、私自身も好きな街。行政も市民も懸命に努力を続けており、その結実はもう少し余裕を持ってみた方がいい。ただ震災後に声高に言われたエンタープライズゾーン構想はどうなったのか。
二十一世紀の神戸活性化には観光産業がポイント。特に六甲山がカギだ。国立公園で開発が難しいのは分かるが、緑を損ねない範囲で、北摂から淡路島へ、南北軸の観光ルートを整備する。市民レベルでアイデアを出し合い、行政が支援することだ。
阪急グループへの期待も大きい。
震災はつらい経験だったが、「第二の創業」と位置づけ、二十一世紀を見すえた企業づくりに取り組んできた。三宮の駅ビルは、建てるからにはシンボリックなものをつくりたい。ハーバーランドは最近ちょっと元気がなく、活性化策を提案すべく検討している。電車のボディーには淡路花博やパンダのステッカーもいち早くはった。人々の目が神戸に向くように、との願いを込めている。できる範囲でのご協力はしたい、と常々思っている。
被災地の今後に望むことは。
初心忘るべからず、と言い続けたい。震災は六千四百人もの命を奪ったが、犠牲者の無念さを忘れてはならない。その思いを胸に、バリアフリー化や優しさのある都市をつくる。市民、行政、企業が協力して復興への意思を継続することが大切だ。
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すがい・もとひろ 1929年、兵庫県出身。53年、関西学院大学経済学部を卒業後、京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に入社。主に鉄道畑を歩み、運輸部長などを経て、90年副社長、93年社長。99年6月に代表権のある副会長に就任するまで復旧・復興を陣頭指揮した。96年からは事業、財務、人事の構造改革を柱とする新生阪急三カ年計画も推進。現在は、小林公平会長とともに阪急東宝グループ全般の経営に広い視野から取り組む。関西経済連合会常任理事、国土・復興対策委員会委員長も務める。宝塚市在住。
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将来像 力強く
震災の日の朝。西宮の自宅近くを走る阪急今津線の線路上に、山陽新幹線の高架橋が落下していたのを目の当たりにした。その事実が受け止められず、何度も目をこすった。そして、深い衝撃に身を震わせた。
同じころ、菅井さんも倒壊した伊丹駅前でぼう然と立ち尽くしていた。だが菅井さんは、会社改革への飛躍の時と気持ちを切り替える。危機に直面した企業トップの冷静な判断と先見性が、再生への確固たるレールを敷いた。
JRと競争関係にある、阪急らしいエピソードがある。震災直後、阪急は災害復旧費の半額までを国や自治体が負担する補助制度の適用を受けず、できる限り自助努力で復興する道を選んだ。「官」には頼らない、という気概。そこには“阪急平野”とも呼ばれる、神戸・阪神間に脈々と流れる「私」文化の精神風土が強く感じ取れる。
震災の試練を乗り切った自信。さらなる企業改革への決意。鉄道事業を取り巻く経営環境は厳しいが、将来像を語る菅井さんの口調は力強かった。復興の現状に甘んじてはいないか。今こそ「自立・自助」の精神を。そう問いかけられた気がした。
(長沼 隆之)
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次回は10月31日にお届けします。
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