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【13】内外からマーキュリーへ(1)/森垣二郎氏の進言が発端

 西宮から全国に発信するのは、”灘の酒”ばかりではない。兵庫県武庫郡今津町川内(現西宮市今津上野町)に大正十三年八月に設立された内外蓄音器商会合資会社から関西の芸能が次々と送り出されていった。その発端は、神戸市兵庫区南仲町で油店を経営していた松田文蔵氏に、日蓄(コロムビアの前身)でディレクターをしていた叔父(文蔵氏の妻の兄)森垣二郎氏の進言によるものだった。

内外蓄音器商会合資会社を設立、
森垣二郎氏とともに代表社員となった松田文蔵氏
(神戸市東灘区在住の松田治子さん提供)


 と言っても、いきなり会社を始めたわけではない。松田文蔵商店は、ライジングサン石油の兵庫県総代理店をはじめ、ろうそくやせっけんの原料も扱う商社だった。今津に大規模工場を建設する以前、倉庫で素人による義太夫などを録音して注文者に売るプライベート盤の製作を小手試しにやっていた。

 機械一式を一体、どのように手に入れたのかの疑問が残る。安直に出来上がるアセテート盤はまだない。素人対象とは言っても、吹き込みラッパで集めた音声をワックス盤に刻んで原盤を起こし、スタンパー(プレス用鋳型)を作るという一連の複雑な作業をしなければならないのは、一般市販用レコードも同じ。

 こうした特殊な製造機器を素人盤のために、わざわざ新品をそろえたのかという疑問である。いくら義兄に勧められても、設備は極めて高額。では中古か―。それにしても遠方では、輸送費が掛かり過ぎて割に合わない。とすると、油店の近くにプレス工場があったとでも言うのだろうか。

 大正十二、三年、兵庫県内のレコード会社は、東亜蓄(尼崎市)と日英楽社(三木市)のみ。東亜蓄は自社製作だが、日英は恐らく大阪の日東蓄などへの委託で、しかもまだ愛好者が極めて少なかったクラシックなどの外国物や英会話レッスン用など特殊なものに限られた。このため競争相手が少ないが故の進言であったとも言える。

 考えあぐねていた折、神戸市灘区のレコード史研究家森本敏克さんから耳寄りな話を聞いた。「神戸市長田区若松町にヒコーキ印の東京・帝国蓄(現在のテイチクとは無関係)のプレス工場の存在を示す新聞広告を見た」と。当時の若松町は、現在の若松町に神楽町と松野通を加えた地域で、ちょうどJR新長田駅を南北から囲むような所。

 松田文蔵商店のあった兵庫区南仲町とは、区こそ違うもののほんの二、三キロの近さではないか。帝国蓄の広告には確かに「工場所在地」として「東京府大崎町」とともに「兵庫若松町」が明記されている。森本さんは大正十三年六、九、十二月の大阪朝日新聞に掲載されているのを確認。

 このころのヒコーキ印帝国蓄の新譜には桂春団治、山村(家)豊子ら関西の芸能人がずらりと並ぶ。とすると、若松町の工場内に吹き込み所もあったのか。それとも芸人に便利なように大阪でスタジオを借りたのか。ともあれ、いつからかは判然としないものの大正十三年、神戸に帝国蓄のレコードプレス工場があったことは間違いない。

昭和17年5月に亡くなった
文蔵氏の葬儀の模様。
松田文蔵商店の様子がうかがえる
(松田治子さん提供)


 プレス機の一部を松田商店が買い取り倉庫で素人吹き込み盤から始め、内外蓄に発展したことは十分考えられる。小手試しのころ、大阪より早く「レコードせんべい」を作ったと、文蔵氏の長男で、後に日東を合併した大日本蓄社長となる故松田俊治氏が生前語っていた。

 一方のヒコーキ印帝国蓄は、この時期、日蓄(コロムビアの前身)の攻勢で苦境に立たされていた。東京の会社だから危急存亡の折、関西のことを構ってはおれない。組織を身軽にするため、神戸工場を切り捨てたのだろうか。

 実際、業界のガリバー的存在だった日蓄に対抗するため、帝国蓄をはじめ富士山印東京蓄、ライオン印三光堂、それに蓄音器メーカーであるスタンダード蓄、イーグル蓄の五社が大正十四年八月、新会社「合同蓄音器」を設立する。関東系の中堅が大同団結した合同蓄も結局、一年半後の昭和二年一月には日蓄コンツェルン傘下に入ってしまう。

 そうしたレコード界の流れを考えると、言わば”関東ローカル”各社が合併する前年の大正十三年に、帝国蓄が神戸工場を放出、または規模を縮小するのは企業として当然の行為である。業界再編の動きをいち早く察知した森垣二郎氏が、関西資本による新しいレコード会社の設立を松田文蔵氏に勧めたのも十分うなずける。

掲載日:1999/01/24



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