rec-ani-ok.gif


【9】奈良・あやめ池系(上)/昭和10年代に3社相次ぐ

 あやめ池は、今でこそ奈良市内になっているが、戦前はもとより昭和三十年までは、生駒郡伏見村(後に町)であった。こんな片田舎にレコード会社が存在したとは、にわかに信じ難い。

かつて3つのレコード会社が
興亡した南園の温泉場跡。
現在は大型マンションに変わっている
=奈良市あやめ池南1ノ7


 歴史をひもとけば、行政上は「村」のまま大正末からわずか六、七年の間に環境が一変していた。きっかけは大正十二年九月に大阪軌道(通称大軌、現近鉄奈良線)に菖蒲(あやめ)池駅が開設されたのに続き、十五年六月の「あやめ池遊園」開園が大きい。

 昭和に入ると開発が活気づく。二年四月、市川歌右衛門プロがこの地に映画撮影所を開設、十一年末まで活動。昭和三年、大軌の急行運行につられるように、四年七月には小劇場を備えた温泉場が誕生した。十三年ともなると、付近の住宅分譲が始まった。急行で行けば、大阪の中心部まで四十分ほど。当時としてはやや遠距離だが、通勤できない時間ではない。

 そうした歓楽・住宅地へと急激に変わっていった「村」に、だれかが目を付けたのだろう。劇場と映画撮影所があれば当然、そこにはプロのバンドが欠かせない。人気の歌手や浪曲師、落語家ら寄席芸人も大阪、東京からやって来る。ついでにレコードの吹き込みをしてもらおうとの考えは、名古屋のアサヒ蓄同様、自然な流れである。

 駅の北すぐに広がる「遊園」に対して、南へ約三百メートルの松や竹林に囲まれた「南園」に温泉場はあった。「伏見町史」(昭和五十六年五月、同刊行委員会編)によると、建物面積約三千三百平方メートル、鉄筋二階建て、ドイツ人の設計で豪華客船の客室をまねた。大浴場のほか玉突きなどの各種遊戯施設、食堂、それに呼び物の小劇場では連日、芝居や映画が掛かったという。完成時には大阪・上六の百貨店屋上から「巨費三十八万円を投じ、あやめ池に室内近代娯楽の殿堂オープン」の大垂れ幕が下がった。

 かのレコード会社は、この南園の温泉場の一角にあったらしい。「伏見町史」は、温泉場の設備についてかなり詳しく書いているが、レコード会社については全く触れていない。本当にここにあったのだろうか。同会社の所在地は「伏見村字菅原一一三六」。その地が果たして温泉場の建物の中なのか、それとも外の別棟だったのか。そして、温泉場を開設した鉄道会社大軌とレコード会社とは、資本的に何らかのつながりがあったのか―。

 そこへ、元テイチクの吹き込み技師だった溝谷武仁さん(62)から耳寄りな情報が入った。「あやめ池の日本歌劇学校があった場所に戦前、レコード会社(スタジオ)があったと先輩から聞いた」。同学校は、温泉場が戦後、米進駐軍に接収されて解除後、一時自然博物館になっていたのを三十一年四月に設立。その当時の住所は「奈良市菅原町一一三五」。広大な敷地で番地は一番違い。ほぼ温泉場があった所と考えて差し支えなさそうである。

OSK日本歌劇学校になっていた
ころの旧温泉場跡
(「伏見町史」より)


 溝谷さんは「スタジオは大阪のレコード問屋中西商会が持っていた」とも言った。ただ、あやめ池のレコードスタジオと言っても、昭和十年から十六年ごろまで、三つの会社がほぼ二年ごとに入れ替わっている。中西商会は、うち一社だけ経営したのか、あるいは、スタジオとプレス工場を所有して三社に次々貸していたのか実態が分からない。

 中西商会は明治四十年春、中西熊次郎が大阪市西区で創業した関西のレコード卸しのしにせ。昭和九年一月、株式会社組織に改めると同時に息子の保次郎に経営が引き継がれた。熊次郎は問屋業に専念したのに対して、保次郎は製造にも盛んに手を広げ、十四年七月、終末期の名古屋・アサヒ蓄の株式を多数取得して実権を握った実績がある。

 現在、近鉄あやめ池駅から南に下る道筋は、スーパーなどを含むごく普通の商店街。かつての「南園」を特徴づけていた芸者置き屋は当然ながらなくなり、旅館・料亭も少ない。そして戦中の十八年まで続いた温泉場は、歌劇学校などを経て、大きなマンションに変わっていた。

掲載日:1999/01/19



レコード120年・第7部「レコード各社興亡秘話」/バックナンバー
【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】 【7】 【8】

元のページに戻るにはブラウザの【戻る】ボタンを押してください。

今日のトップページはこちら