先週末、首都ワシントンで1万人超のトランプ氏支持者がデモを行うなど、大統領選挙を巡る米国の混乱は収まらない。
「選挙自体が不正」との主張も聞くが、支持できない結果なら多数決を受け入れないというのでは、民主主義の原則は根底から崩れてしまう。
だがデモの参加者からは、争ったバイデン氏だけでなくその支持者への感情的な非難も聞こえ、原則論は通じそうもない。
思い出すのは先日の「大阪都構想」を巡る住民投票だ。選挙戦終盤には賛成派と反対派の間で非難の応酬が目についた。家族で賛否が分かれた例もあると聞く。僅差で反対派が勝ちはしたが、あれだけ非難し合った後で、なにごともなかったように振る舞えるものなのか。
地方自治研究機構の調べでは、1996年8月からの24年間に全国で計45件の住民投票が行われた。兵庫県内でも旧篠山市が、投票結果を受け丹波篠山市に名称を変更した。
どの地域も、投票後は住民同士の融和に気をもんだことだろう。少数派が多数決に従うだけでなく、多数派も積極的に歩み寄る必要がある。それが難しいからこそ、投票に至ったとも考えられる。
日本も米国のように、社会全体が一つのテーマで意思決定を迫られる可能性はゼロではない。憲法改正についての国民投票がその一例だ。
家族や友人らの間で賛否が分かれ、多数決の結果が自分の考えと異なっても、粛々と受け入れ、多数派の人たちと明日に向かって歩みだす。
もし国民投票が行われた場合、成熟した民主主義社会の一員にふさわしい行動がとれるだろうか。米国の様子をテレビで見ながら、自らを省みる。
