大阪高裁の法廷にどよめきが起きた。2001年4月27日。水俣病関西訴訟の控訴審判決は一審の判断を覆し、原因企業のチッソと国、熊本県の責任を認める画期的なものだった。患者認定についても、国の厳しい基準より幅広い判断をした。
原告団長の川上敏行さんは満面の笑みだった。尼崎市に住んでいた原告の一人、川元幸子さんと手を取り合って喜んだ。国と県は上告したが、原告は最高裁判決でも勝訴を手にした。
その川上さんが先月、96歳で亡くなった。
川上さんは熊本県水俣市で生まれた。漁師になり、その後運輸会社で働いた。水俣病が公害認定された1968年に大阪へ転勤し、東大阪市で暮らした。
最初に取材したとき、熊本の伯父に似ていると思った。少々武骨だが温かみがあり、いかにも九州人という人柄だった。
作家の石牟礼道子さんが水俣病を告発した著書「苦海浄土」で、漁師の妻の劇症患者が一人語りをする。「うちゃ、どうしてもこうしても、もういっぺん元の体にかえしてもろて、自分で舟漕(こ)いで働こうごたる」
その女性のモデルが川上さんの義母だったことを知り、石牟礼さんの描く世界と、多くの患者が暮らす関西とが直接つながっていることを実感した。
最高裁判決後も、国は認定の判断条件を変えなかった。「司法と行政は違うんですか。それはおかしいでしょう」。川上さんは厳しい表情で問いかけていた。自身は2011年にようやく水俣病と認められた。しかし残念ながら、認定の門戸は大きくは広がっていない。
「患者を認定しない国の判断条件を何としても崩したい」。そう言い続けた川上さんの願いは、いつかなうのだろうか。
