「十二人の怒れる男」という米国映画がある。60年以上前の作品だが、日本では舞台化もされ、名作の誉れが高い。
裁判所の一室。殺人事件の陪審員に選ばれた見ず知らずの市民12人が、有罪か無罪かの協議を始める。最初は全員一致で有罪かと思われたが、1人が異を唱えたことで流れが変わる。
評決は全員一致でないと成立しない。不成立なら別の陪審員で裁判をやり直すことになる。
だが、それでは責任放棄にならないか。罪に問うべきか否かを、自分たちでとことん話し合うべきではないのか。
1人の正論を誰も否定できない。一方で、早く務めを果たして帰りたいという「空気」が漂う。せめぎ合いの中で、議論は1時間以上展開される。
この古い名画を思い出したきっかけは、東京五輪・パラリンピック組織委員会の前会長、森喜朗氏の発言だった。
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」などの発言は批判されて当然だが、組織委員会の女性は「わきまえておられて」助かるという部分にも引っかかりを覚えた。
わきまえている人は話が短い。だからわきまえなさい。そう言いたいのだろうが、会議の冒頭、延々40分も続いたご自身の発言はどうなのか。
自分が差配する場の「空気」を読んで、君らは出しゃばらないよう気を付けろ。そういう威圧にしか受け取れない。
日本人は「空気」に支配されがちと喝破した評論家の山本七平氏は、「空気」のせいにする無責任さ、危うさも指摘した。
映画で1人の陪審員が「空気」を忖度(そんたく)して異論を控えたら、被告は不十分な証拠で死罪を宣告されただろう。「空気」にあらがうことも必要だ。
