海も山も望める阪神高速湾岸線。ただし、芦屋市の南芦屋浜では、そびえるような高い防音壁に囲まれている。
理由がある。湾岸線の北にある芦屋浜地区の住民らが、騒音や大気汚染など環境問題を懸念し、建設に反対していた。住民らは道路をシェルターで覆うよう要望した。阪神高速道路公団(当時)は応じず、高い防音壁は“妥協”の産物だった。
先日、訃報が届いた元芦屋市長の北村春江さんは、1991年の市長選で、湾岸線の建設計画に反対した。だが初当選を果たした後、住民説明会で「できないことはご容赦を」と、あっさり撤回した。本人も語っていたが、良くも悪くも「政治は素人」だった印象が強い。
私が芦屋市政を担当したのは阪神・淡路大震災の前。財政は豊かだったが、お屋敷が取り壊され、マンションに変わるなど街並みは崩れつつあった。
北村さんとは、昼食やお茶も共にした。話題は力を注いだ教育や環境、趣味の俳句など多岐に及んだ。口調は穏やかだが、芯の強さを感じさせた。
北村さんが「箱庭のように美しい」と形容し、住み続けたい街、とうたわれた芦屋は震災でがれきの山と化した。市民の命と財産を守るべき行政は、その責任を全うできなかった。
区画整理事業を決めた市都市計画審議会。住民らに詰め寄られ、無言で車に乗り込んだ北村さん。震災前に黒く染めていた髪は白いまま、顔は青ざめ、私が知る彼女ではなかった。
あれから27年。芦屋は、震災時を思えば見違えるような復興を遂げた。市民の努力はもちろん、「芦屋の良さを取り戻し、災害に強い街にしたい」という北村さんの固い信念が礎になったことも忘れずにいたい。
