日曜小論

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 「逝きし世の面影」という本がある。日本近代思想史を研究する渡辺京二さんの著書で、名著の誉れが高い。

 18年前に姫路市の和辻哲郎文化賞を受けた。今も読まれ続けているのは、日本人の、それも名もない庶民の美徳が描かれているからだ。

 例えば人力車夫が苦労をして坂を上っている。すると別の車夫が駆け付けて後ろから押す。お礼のおじぎと笑顔。見知らぬ者同士が普通に助け合う姿が紹介されている。

 山村で休息を取る。村人の心遣いに謝礼を渡そうとすると、固辞される。「水を飲んでもらっただけだから」と。

 別の村では地元の子どもが「暑いから」と休息する旅人に扇で風を送る。やはり謝礼は固く辞退し、逆にお菓子と扇を旅人に手渡す。

 いずれも江戸末期から明治にかけて日本を探訪した多くの西洋人が、驚きや称賛を込めて書き残した記録だ。

 他人を気遣い、親切で控えめ。この本はそうしたエピソードであふれている。

 トロイの遺跡発掘で知られるドイツ人考古学者シュリーマンも、よく似た体験を自分の旅行記で書いている。

 江戸上陸の際、荷物をほどくのが面倒で検査の役人に袖の下を渡そうとした。多くの国では当たり前のことだ。しかし頑として受け取らない。かといって意地悪もせず、笑顔で見送ってくれる。

 誰もが自分の役割を誠実にこなし、不当な利得は拒む。その高潔な姿は今の私たちが読んでも感銘を受ける。

 ただ、渡辺さんは指摘する。そうした美徳を育んだ文明は近代化とともに「滅亡」してしまったのだと。今はもう「逝きし世」をしのぶほかないという結論が、悲しい。

 そうだと思いたくはない。だが「偽装」「改ざん」「隠蔽(いんぺい)」など、およそ高潔と言いがたい振る舞いを耳にするたびに、やはり何か大切なものを失ったのかとも考える。

 今の日本はかつての日本人の目にどう映るだろう。

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