ある医師の話を作家の浅田次郎さんが書いていた。自身の小説にモデルとして登場するその医師は母の命を救ったばかりか、自分や家族の人生をよりよい方向に導いてくれた恩人という◆出会えてよかった、心底からそう思える先生だったらしい。「医者は病を治すが、名医は人生を治してしまう」。浅田さんの言葉である。それを「名医」の定義とするなら、この方こそ名医であったに違いない◆大阪のビル放火で亡くなったうちの1人で、事件現場となった心療内科クリニック院長、西沢弘太郎さんである。「心の支えだった」「神様みたいな先生」「いつも味方してくれた」。患者の声がすべてだろう◆親身になって耳を傾け、励まし、時に背中をそっと押す。49歳の院長先生は心の不調を抱える人たちの社会復帰を熱心に支援していたそうだ。働きながらでも通院できるよう、夜遅くまで診察していたとも聞く◆医師で歌人の山村泰彦さんに一首があった。〈生きることの辛さならむかわが診察受けつつ人の涙ぐみにき〉。つらかったね。しんどかったね。涙する患者に注ぐ優しいまなざしは西沢さんのそれとも重なろう◆事件からきょうで1週間、火を放たれたときの状況がわずかずつながら明らかになってきた。むごすぎる。2021・12・24
