渡哲也さんの趣味はたき火だった。夕暮れ時になると、自宅の庭にこしらえた炉に薪をくべる。揺れる炎をじっと見つめ、パチパチという音を聞き、煙の匂いをかぐ。至福の時間であったようで、不思議に心が落ち着いたという◆恐らくはその道の達人だった渡さんである。昨今衰えないこの「たき火ブーム」をどう解説しただろう。静かに火がついて、コロナ禍では「密」を避ける大人の楽しみとしてキャンプ場などで人気を呼んでいる◆大人だけではない。「火育(ひいく)」という言葉が日曜の本紙で紹介されていた。昔と比べ火に接することの少ない現代っ子たちがたき火や火起こし体験を通じ、正しい火の扱い方を学ぶ取り組みが広がっているそうだ◆村上春樹さんに、たき火の場面を描いた短編がある。炎を見つめながら、男が言う。「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える」(「アイロンのある風景」)◆もしも寂しく燃えているように見えたとしたら、それは自分に寂しい気持ちがあるから。つまり、たき火は心を映す鏡である。ガスやライターの火ではそうはいかない◆ありのままの自分の気持ちと静かに向き合いたい。というのであれば、たき火ブームはなかなか奥が深い。2022・1・12
