社説

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 80年前のきょう、太平洋戦争が始まった。日本軍が英領マレー半島に上陸し、米ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をかけた日である。泥沼化していた日中戦争は、米国をはじめとする連合国との全面戦争に拡大した。

 緒戦の勝利に沸き立ち、多くの国民が「万歳」の声を上げた。それから敗色濃厚となり、沖縄や本土の都市が焦土と化し、無条件降伏に至るまで、4年弱である。

 日本人だけで310万人が命を落とし、中国などを含めると犠牲者は2千万を超える。終結の道筋もはっきりせず、勝ち目のない戦争に突き進んだ過去の過ちを見つめ直さねばならない。過ちを繰り返さないよう、平和への誓いを新たにしたい。

 日米開戦、とりわけ真珠湾攻撃は機密事項だった。朝、ラジオの臨時ニュースで開戦を知らされた国民には、まさに寝耳に水だ。

 当時、国際情勢が緊迫を増す中でも、米国との危機回避の外交努力はぎりぎりまで続いていた。神戸新聞は8日付朝刊で「日米交渉進展せず」と、事態の困難さを報じている。しかし朝刊が届いた頃、既に真珠湾への奇襲攻撃は行われていた。

 一転して翌日の紙面では、1面トップに掲げた社説で「万死もって祖国に殉ずるの決意を固め」などと戦意高揚の論調を展開する。国民は真実を何も知らされないまま、根拠のない「必勝」の掛け声に背中を押され、戦争へと駆り立てられた。

 情報を伝えるべきメディアも厳しい統制下に置かれ、国策の旗振り役しか許されなかった。報道の抑圧が国家の破局につながった事実を、反省とともに心に刻む。

 「開戦の詔書」を発布した昭和天皇は、死の直前まで開戦を悔いていたとされる。7年前に公表された「昭和天皇実録」でも、対米開戦を主張する海軍に対し「捨て鉢の戦にほかならず、誠に危険」(1941年7月)と危惧する言葉が残る。

 側近の記録には、クーデター未遂「二・二六事件」などで過激化した軍部の「下克上」を非難し、国情を憂う心情も記されている。

 ただ、最終的には流れにあらがえず開戦を受け入れた。回転し始めた歯車が暴走してからでは遅い。昭和天皇が抱き続けた苦渋と悔恨は、歴史の教訓を今に伝えている。

 驚くことに、開戦の詔書には日清、日露戦争や第1次大戦時にあった「国際法、国際条規を守る」という文言が消えていた。歴史を検証した作家の半藤一利さんが著書「昭和史」でそう指摘している。

 国の破局を招いた戦争の根底に、国際社会の法理を平然と無視する軍部や政治指導者の思い上がりがあったことも、記憶にとどめたい。

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