安倍元首相国葬/「岸田政治」の本質が問われる
2022/09/28 06:00
安倍晋三元首相の国葬がきのう東京・日本武道館で営まれた。戦後2例目となる国葬は、法的根拠の曖昧さ、全額国費で賄うことの妥当性、弔意強制への懸念が指摘されたが、政府の説明は不十分で、世論の賛否は二分されたままだ。
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独断で実施を決め、異論を置き去りにして強行し、政治不信を深めた。岸田文雄首相の責任は重い。
国民との間に生じた溝をどう修復するのか。「信頼と共感」を掲げる岸田政治の本質が問われる。
◇
冒頭、通算8年8カ月に及ぶ首相在任中の安倍氏の歩みを紹介する政府作成のビデオが上映された。故人の「名場面集」のような映像は、この国葬が、特定の政治家を国家がたたえるイベントにすぎないという実態を浮き彫りにした。
自ら葬儀委員長を務めた岸田首相は、安倍氏の実績を列挙して「自由と民主主義の実現に世界の誰より力を尽くした」と称賛し、その遺志を継ぐ決意を示した。
だが、評価の定まらない「安倍政治」の何を受け継ぐかが重要だ。
独断が分断を広げた
経済政策アベノミクス、安全保障関連法の制定、東京五輪・パラリンピックの招致などは功罪両面があり、数の力で反対論を押し切ったものも多い。東日本大震災からの復興、拉致問題への対応などは実績と言うには道半ばである。
記憶に新しいのは、森友、加計学園問題や桜を見る会を巡る疑惑などであらわになった長期政権の弊害の方だ。身内に甘く、批判に耳を傾けない姿勢は、国会の議論を空洞化させた。政権に忖度(そんたく)する官僚が横行し、公文書改ざんに関わった職員は自死に追いやられた。
銃撃事件で急浮上した安倍氏と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係は、選挙支援などを通じて自民党を深く広く侵食していることが分かってきた。
その功罪が整理されないうちに、国葬に値する政治家として国が称揚することに、違和感を抱く国民が多いのは当然だろう。
まず問題視されるのは、国葬実施に至るプロセスである。
首相は、国葬の法的根拠などを巡り国会への事前説明や審議を経ず、閣議決定だけで実施を決めた。法的根拠とする内閣府設置法は「国の儀式を所掌する」と定めるだけで、開催を決める権限までは定めていない、との指摘に対しては「内閣法制局の判断も仰いで決定した」と強弁した。だが、法制局による検討の過程は明らかになっていない。
各種世論調査で国葬への反対が賛成を上回る結果にも向き合おうとせず、同じ説明に終始した。
安倍政権が残した疑惑の全容解明には否定的で、安倍氏と教団との関係についても調査しようとしない。
就任時「聞く力」を掲げた首相は、7月の参院選でスローガンを「決断と実行」に変えて勝利した。だが、世論と国会を軽視した国葬の決断は完全に裏目に出た。
安倍政治の負の側面をなぞるかのような政治手法が国葬への反発を招き、分断を広げた。首相は自らの政治姿勢を省みるべきだ。
国会で丁寧な議論を
憲法との関係でも問題点は多い。
閉会中審査で首相は「故人への敬意と弔意を国全体として表す」と国葬の趣旨を説明する一方、「国民一人一人に喪に服することを求めるものではない」とも述べた。弔意の強制は憲法19条が定める思想・良心の自由を侵す、との指摘を意識したのだろうが、明らかに矛盾している。
1967年の吉田茂元首相の国葬では、学校、企業などに弔意を示す半旗掲揚や行事の自粛などを要請した。2年前の中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬でも、政府は自治体などに、弔意を示すよう求める通知を出した。
今回、政府は中央省庁以外にこうした要請はしていない。にもかかわらず都道府県の多くが庁舎に半旗を掲揚し、兵庫県内でも県と、ほぼ半数の市町が対応した。国葬の目に見えない圧力の表れと言える。
国葬に関する法整備を求める声もある。ただ、社会の価値観が多様化した現代で、対象者や開催基準を規定するのは難しい。国葬という形式そのものが法の下の平等や民主主義とは相いれないのではないか。10月に召集される臨時国会で丁寧に検証すべきテーマだ。
国葬が終わっても幕引きとはいかない。むしろ岸田政治を見極める出発点である。首相は真摯(しんし)に議論に臨むことで信頼を取り戻すしかない。