プログラム#1

須磨アルプス・馬の背

出演バイオリニスト:マウロ・イウラート、幸田聡子
撮影日:2021年4月12日

 第1作は、六甲全山縦走路の西端にある最初のハイライト、須磨アルプス・馬の背が舞台です。
 東山と横尾山をつなぐように東西に走る尾根は、その名の通り馬の背に似た形状で起伏に富み、乾いた風化花崗岩がむき出しの姿は、どこか海外の山を思わせます。視界は360度開け、ここに立つと一端の冒険家になった気分。登山道は人がすれ違えないほど細い場所もありますが、ゆっくりと足元を見て歩けば大丈夫。子どもたちもスニーカーで上がってきます。

 今回は、神戸で暮らすバイオリニストのマウロ・イウラートさんと幸田聡子さんが、1700年代フランスの作曲家ルクレールの名曲を弾きます。一帯を管理する神戸市に飛行許可を得て、ドローンでも撮影。スペクタクルな画角で、山と街、海が近接する神戸ならではの特徴を凝縮した映像になりました

出演者

マウロ・イウラート

六甲山愛はff(フォルティッシモ)

マウロ・イウラート(Mauro Iurato)

 1977年生まれ。神戸市中央区在住。イタリア・トリノ出身。
G・ヴェルディ国立音楽大学卒業、ウィーン国立音楽大学に在学中だった2003年、同大のプロジェクトで来日。精力的な演奏活動の傍ら、神戸・北野で音楽スクール「ハルモニア神戸」を主宰し、大勢の後進を育てている。昨年9月と今年5月には、新型コロナウイルスで多くの犠牲者が出た母国イタリアを支援するため、神戸新聞松方ホールなどでチャリティーコンサートを開催した。
過去記事「音モノ語り〜わたしの相棒」(2018年1月27日掲載)

撮影を終えて

 六甲山系は故郷イタリア北部のアルプスに似ています。街との近さ、山の緑、海や空のブルーの色…。撮影では山に満ちるポジティブなエナジー、音楽のチャンネルを広げてくれる強いパワーを感じながら弾いていました。バイオリンも木からできているので、うれしいのでしょう。よく響いていました。
今回、演奏したルクレールの曲は、音符が少なくシンプルなのに、実に豊かなものが詰まっている。バッハに似た音楽性が感じられ、天才だと思う。一緒に演奏した聡子は、天使、プリンセスのよう。魂と音楽に高貴さを秘め、曲にピッタリでした。通常バイオリン・デュオの多くは、音程のテクニックや音楽性が同じ、同門同士や親子で弾いています。そうでないと難しい。同門でもない聡子とうまくいったのは、彼女がとても相手の音をよく聴いてリーチしてきてくれるから。素晴らしいパートナーです。
子ども時代、週末になると伯父に連れられて2人で山に登りました。伯父は昔、軍隊で専門訓練も受けた山岳のエキスパート。標高1500メートルに家を持ち、僕が8歳の頃には1日で4000メートルまで登った。朝5時に出発し、日没前に必ず帰れるよう緻密にペース配分して。怖い難所もありましたが、伯父が足をどこに置けばいいか教えてくれた。2500メートル地点の休憩所には牛やヤギがいて、ミルクを絞って飲んだり、チーズや鶏卵を食べたり、まさに「アルプスの少女ハイジ」の世界そのもの。強い記憶です。
実は最近、六甲山が好きで山上に家を持ちました。秋ごろ引っ越します。神戸・北野の音楽スクールはそのままに、第2スクールを構えます。そこで家族や生徒たちとともに、自然とつながれる生活が楽しみです。

幸田聡子

六甲山系はespressivo(エスプレッシーヴォ)

幸田聡子(こうだ・さとこ)

 1969年生まれ。神戸市灘区在住。大阪府豊中市出身。東京芸術大学卒業。大手レーベル「コロンビア」から出した初アルバム「美空ひばり・オン・バイオリン」がヒットし、日本レコード大賞企画賞受賞。現在、神戸市室内管弦楽団メンバー。妹のソプラノ歌手・幸田浩子と2011年から9年間、毎年5月の「母の日」に神戸新聞松方ホールで東日本大震災遺児を支援するチャリティーコンサートを開催。1000万円を超える義援金を届けている。
過去記事「音モノ語り〜わたしの相棒」(2018年12月22日掲載)

撮影を終えて

 六甲山系はとっても表情がエスプレッシーヴォ(多彩)!撮影はとてもエキサイティングでした。こんな機会でもなければ、正々堂々とあんな場所で弾けないですから。これまでも六甲山で弾いてみたことはあったけれど、他の人にどう思われるかを気にして、誰もいなくなってからこっそり、ということも。それが今回はハイカーの方に待ってもらって「どうぞ弾いてください」なんて。さらに、たくさんの人に届く映像になるなんて宝物です。
 バイオリン・デュオで弾くのも初めてで新鮮でした。実はこれまでは低音のチェロと弾くことが好きだったんです。自分には出せない音に惹かれるので。でも今回バイオリン・デュオならではの響きの美しさに気づきました。何よりマウロと弾けた幸運! 偶然にもマウロの楽器は、私のものと同じイタリア・トリノ製。楽器同士が弾き手を超えて“再会”を喜び、響き合っていると感じる瞬間が何度もありました。
 私は、今回担当した第2パートを弾くことも初めてでしたが、マウロは独特の濃厚な美音を持っていて「この魅力をどうすれば生かせるか」と考えながら弾く楽しさがありました。バイオリン・デュオの曲は、第1パートと第2パートがメロディーラインと伴奏パートを頻繁に入れ替わる構成が多いですが、お互いの美点を生かしながらどうスイッチしていくか。今後さらに細部までこだわっていくごとに新しい発見があるはず。彼と弾くとバイオリニストとして成長できる気持ちになり、わくわくします。

ルクレールの名曲

演奏風景

 須磨アルプス・馬の背の自然美を彩る音楽が、フランス生まれの作曲家ルクレールの名曲です。
 実は筆者にとって今回、大きな収穫の一つが、ルクレールの作品に出会えたことでした。
 過去に文化部で音楽を担当しましたが、恥ずかしながら当時は彼のことを知りませんでした。しかし曲を初めて聴いたときから、心をぎゅっとつかまれるような美しい旋律に魅了され、すっかりファンになりました。今回動画で紹介する作品以外にも、たくさんきれいな曲があります。

 名前は、ジャン=マリー・ルクレール(1697~1764年)。
 あの有名なJ.S.バッハや、日本でいうなら江戸時代、第8代将軍・徳川吉宗と同じ時代を生きた人です。音楽史上でいうと、「バロック」と呼ばれる時期にあたります。
最初はバレリーナになり、イタリアでバレエ教師になりましたが、その後バイオリニストとして活躍した異色の経歴で、パリで成功し、作曲家としても優れたバイオリン作品を多く残しました。しかし最期は自宅で暗殺され、67歳の生涯を終えています。クラシックの著名な作曲家で順風な私生活を送った人のほうが珍しいように思いますが、こんな優美な曲を書く人に何があったのか。その死は謎のままです。

 今回2人が弾く曲は「2つのバイオリンのためのソナタ集第1巻」から3曲。
演奏シーンで奏でる1曲目「ホ短調作品3第5番Gavotte」は、バイオリン2挺の音色が絡み合い、深みがある叙情的な響きを醸します。

馬の背

 須磨アルプス・馬の背は、一日に日の当たり方で刻々とその表情を変えますが、早朝や夕刻、東西に日が傾き、山肌の凹凸の陰影が濃い時間帯に立つと、少しずつ風化しながらも存在している姿に、ふと孤高と物悲しさを感じることがあります。哀愁を帯びたメロディーは、そんな情景と重なりました。

 2曲目の「ホ短調作品3第5番Presto」はがらりと雰囲気が変わり、アップテンポで華やかな曲調です。短調ながら、快晴の空の下、昼間の馬の背にピッタリと合います。多用されるトリル(高さが違う複数の音を小刻みに反復する技法)の響きが、小鳥のさえずりのようにも聞こえ、何とも爽快な気分になりました。撮影当日、近くではウグイスが上手に鳴いていましたが、一緒に歌っていたのかもしれません。

 そして、冒頭の登山道シーンで流れる「ト長調作品3第1番Allegro」。4拍子のリズムを陽気に刻み、ベートーベンの交響曲第6番「田園」を連想させる牧歌的な曲想です。新緑の中、キラキラした木漏れ日を浴びながらぐんぐん歩いていくときの、ワクワクした気持ちを代弁してくれるようです。

デュオ誕生

2人の練習風景

 今回の企画は、マウロ・イウラートさんと幸田聡子さんの協力がなければスタートできませんでした。バイオリンはとても繊細で、日差しや湿度はよくありません。環境が管理された音楽ホールと違い、楽器をかついで山道を登り、風も吹けば虫も飛んでくる自然の中で弾くのですから。さらに2人の楽器ともなると、高価なものは高級マンションが買えるほど。
OKしてくれるアーティストは少ないかもしれない。にもかかわらず、「一緒に頑張ろう」と、むしろ面白がって参加してくださいました。本当に感謝しています。

 2月9日、須磨アルプス・馬の背の撮影を前に初めて神戸・北野のイウラートさんの音楽スクールで音を出し合いました。2人は長年、同じ神戸に住みながら面識はなく、今回が初対面。しかし企画を考えながら、山の上で携帯性があるバイオリンで、しかも1挺ではなく2挺で撮ろうと思ったときに浮かんだ顔が、取材を通じて出会った2人でした。
 普段のコンサートで、バイオリン・デュオの実演に接する機会は珍しいと思います。筆者もこれまで一度もありませんでした。イウラートさんに理由を聞くと「(2時間余りのコンサートで)高音域の楽器のバイオリンの音だけだと物足りない感じがするからでしょう。それにバイオリン同士で一緒に弾くには、同じ先生に習ったか、親子じゃないと難しい。テクニックや音楽性が一致していることがとても重要だから」と。そういう意味では今回、無理をお願いしたわけですが、うまくいく予感はありました。
 それは2人の共通点。まずは自然を愛し、六甲山を好きなこと。他にもあります。イウラートさんが以前「これ、フェニックス(不死鳥)みたいでしょう」と携帯電話で撮影した雲の写真を見せてくれたことがありました。そのときに「この感じ、誰かにも同じことされるな」と思い、ハッと気づいたのが幸田さんでした。幸田さんも、美しい空や珍しい形の雲の写真を撮ると見せてくれます。2人は同門でも親子でもないですが、同じものに感動できる感性は、デュオで弾くときに大切な気がしています。

 初めて音が鳴り出した瞬間は、ジーンとしました。それぞれ個別に会っていた2人が、目の前で一緒に弾いている姿は何とも不思議で、感動は一生ものです。企画を進めていくにあたり、そのときの光景が支えになってくれました。2人が音を重ねていくごとに打ち解け、弦の音が溶け合っていく過程をそばで聞かせてもらえたことは貴重な体験でした。

2人の写真