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来年の制定100周年を盛り上げようと発行した冊子「時の記念日のおはなし」と、井上毅館長=明石市立天文科学館
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来年の制定100周年を盛り上げようと発行した冊子「時の記念日のおはなし」と、井上毅館長=明石市立天文科学館

 6月10日は「時の記念日」。今年は1920(大正9)年の制定から99年だ。日本標準時子午線の上に建つ兵庫県明石市立天文科学館(人丸町)は、来年の制定100年を盛り上げようと、全国の科学館や博物館に連携を呼び掛けている。(勝浦美香)

 そもそも時の記念日の由来をご存じだろうか。

 1920年に文部省(当時)が東京で実施した「時」展覧会が大人気だったのをきっかけに、渋沢栄一ら政財界、教育界の重鎮がメンバーになった「生活改善同盟会」が制定した記念日だ。

 日本の近代化には時間厳守の意識が欠かせないが、当時の日本人はまだのんびりしていた。電車の運行ダイヤの正確さなど、時間厳守は日本人の国民性とのイメージがあるが、この記念日ができるまではそうでもなかったらしい。欧米に並ぶような生活改善を目指すのが目的だったようだ。

 100周年の機運を高めようと市立天文科学館の井上毅館長は、日本人の時間意識の変化や、記念日制定に至るまでの経緯を「時の記念日のおはなし」(税込み200円)にまとめた。

 10日に発売された冊子の中身を少し紹介する。

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 日本に時間の概念が広まったのは、天智天皇の時代までさかのぼる。

 天智天皇が皇太子(中大兄皇子)だった660年、古代中国で発明された水時計の一種「漏刻」を作った。水槽に水を注ぎ、水位の上昇で時間を計る装置だ。

 即位後の671年6月10日、現在の滋賀県大津市に漏刻を設置し、鐘や太鼓を打ち鳴らして時を知らせたという記録が日本書記にある。

 これが、日付がはっきりしている日本最初の時報とされる。人々の暮らしを時刻制度で秩序付けるのが狙いだったようだ。

 江戸時代になると、日没と日の出を基準に、それぞれを6等分して時刻を割り出す方法が登場。季節や地域によって時間は異なり、当時、1~2時間の誤差は許容範囲だったという。

 明治時代になると、時の意識が変わり始める。

 明治政府は1873年、1日を24時間で等分する「定時法」を制定。鉄道や郵送事業が発達し、制度としては「分」、庶民の生活では「時」レベルの時間意識が普及し始めた。

 世界中で交通・通信網が整備され、時刻の基準を定める必要が生じた。84年には英国グリニッジ天文台が本初子午線と決定される。これを受け、東経135度が日本標準時に決まった。明石市には1910年、記念の標識が初めて建立された。

 そして、20年の「時」展覧会。会期中、天智天皇の漏刻が時を知らせた6月10日に、時間尊重を呼び掛けるというアイデアが飛び出した。

 生活改善同盟会も賛同し、「時の記念日」として実施が決まる。東京都内の主要な場所でチラシを5万枚配り、通行人に「時計を正しい時刻に合わせてください」と呼び掛けた。

 そして99年前の6月10日正午、東京教育博物館(現在の国立科学博物館)は館長の号令に合わせ、いくつもの風船を空に放った。

 このイベントが「カウントダウン」の先駆けとなり、日本人に「秒」単位で時間を意識させるきっかけになった。

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 市立天文科学館は来年の100周年に合わせ、全国の科学館や博物館に企画展を展開するよう数年前から呼び掛けている。

 すでに複数の施設が特集展示を計画中だ。今回の冊子発行を聞き、県外から「この冊子を参考に企画をやりたい」との問い合わせも届いているという。

 井上館長は「明石市では『時の記念日』の認知度は高いが、全国的にはいまひとつ。現代の日本人の時間意識を変えてきた記念日なので、その面白さを伝えたい」と力を込める。

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