明石

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台湾での飛行訓練。空を飛ぶのは気持ちがよかった(伊原さん提供)
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 松山海軍航空隊(愛媛県)の予科練入隊から7カ月がたった1944(昭和19)年5月。

 16歳の伊原昭(92)=兵庫県明石市=は通常の3分の1の突貫訓練で、当時日本が支配していた台湾の台中海軍航空隊に戦闘機操縦飛行練習生として着任。10月1日、台南海軍航空隊に移った。

 2週間もたたないうちに、台湾沖航空戦が始まった。伊原の基地からも戦闘機が次々に飛び立った。

 「朝からゼロ戦が20機ほど離陸したと思ったら、グラマン(米軍の戦闘機)が30機やってきて、入り乱れて戦闘になりました」

 初めて見た実戦。上空で、戦闘機が火柱を上げて墜落していた。

 「ざまあみろと喜んどったら、落ちてきた翼には日の丸がありましてな。ゼロ戦は無敵や思とっただけに、まあびっくりしました」

 戦争の要はまず、制空権を押さえることだ。緒戦で勝利した日本は太平洋の広範囲を支配していたが、南方戦線で敗戦を重ね、じりじりと後退していた。

 台南での厳しい訓練が続く中、基地が敵機の奇襲に遭った。伊原は、練習機で訓練中だった。

 「着陸しよったら、背後からぐんぐん敵機が近づいてきましてな。あかん思て、すぐに滑走路の脇に練習機を止め、防空壕へ逃げたけど、間に合うわけがない。20メートルほど走ってうつぶせになりました」

 隠れる場所のない滑走路。2機が至近距離から「バババババッ」と、機銃掃射を撃った。目と耳をふさいだが、大きな音と衝撃を感じた。

 「終わりや。俺は死ぬる。絶体絶命の時は走馬灯が駆け巡る人がおるようですが、ワシはそんな余裕もなかった。ちょっとでも低い姿勢を取りたくて、体を左右に動かして滑走路の土を掘ろうとしたぐらいです」

 うつぶせになった細身の体の数十センチ両側に、機銃掃射の跡が残っていた。

 「歯はガクガク、膝がブルブル。震えが止まりませんでした」

 防空壕にたどり着いた。5分、いや2~3分だっただろうか。敵機が去り、滑走路の端に取り残された練習機を見た。操縦していたのは2機後ろで着陸した同期の金田勉だった。

 「金田は肩から腹にかけて機銃掃射を受け、はらわたが出とる状態でした。座席の下は血の海。右手に操縦かんを握っとりました」

 「畜生。必ず敵をとったるからと思いましたな。さっきまで怖くて震えとったのにね」

   ◇   ◇

 同年6月のマリアナ沖海戦で多くの戦闘機を失うなど、日本軍はさらなる劣勢を強いられた。そんな中、離着陸、編隊飛行、夜間、急降下の訓練が続いた。

 「着陸に失敗して機体を損傷させたら一大事。連帯責任で罰直です。人間より飛行機が大事っちゅうことですわ」

 腕立て伏せの姿勢を保つ「前支え」を1時間、野球のバットより太い木の棒で尻を殴られる「バッター」を何度も食らった。

 「痛とーて、あおむけで寝られません。練習生はみな、尻が黒紫色でした」

 教官に四つんばいで走れと命令されたこともあった。

 「犬になれと言われ『ワンワン』、豚になれと命じられ『ブーブー』と言いながら走りました。教官はゲラゲラ笑っとりました」

 台湾で殺し合いの現実を知った伊原。その証言は詳細で、場面が目に浮かぶようだった。それでも私には、本当の実感をつかむことができない。殺し合うとはどういうことなのか。

 私は尋ねた。

 「戦友の死で、殺し合うことへの考えに変化はありましたか?」

 「変わらんというか、憎しみが募れば募るほど、どんどん狂気に支配されていきました。戦後、教官の多くは沖縄戦の特攻で亡くなったと聞きました。今思うと、死への恐怖を封印するため、ワシらで気を紛らわせとったんちゃいますやろか」

 狂気とは何か。中東の過激派組織「イスラム国」(IS)の少年による自爆テロが脳裏をかすめる。

 ただ、そこで思考は止まる。やはり実感することはできない。

 台湾の夏は、肌を出していると皮膚がはがれるほどの酷暑だった。それにもかかわらず、伊原は夏の暑さを覚えていない。(藤井伸哉)

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