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空襲で生死が分かれた伊原昭さん(左)と河村利美さん。訓練では同じ班で仲が良かった
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空襲で生死が分かれた伊原昭さん(左)と河村利美さん。訓練では同じ班で仲が良かった
ロケット型戦闘機「秋水」の復元機=愛知県豊山町
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ロケット型戦闘機「秋水」の復元機=愛知県豊山町
神戸新聞NEXT
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 日本海軍は1944(昭和19)年10月、フィリピン戦線で「神風特別攻撃隊」を初めて出撃させた。

 17歳になった伊原昭(92)=兵庫県明石市=が、初めて実戦を知った台湾沖航空戦の直後だ。

 翌11月に伊原は練習教程を終えたが、戦局は悪化し、物資も不足。45(同20)年2月、大村海軍航空隊諫早分遣隊(長崎県)へ配転となった。

 「沖縄戦に行く予定でしたが、(細菌感染症の)発疹チフスの患者が出ましてな。一時的に隔離されとりました」

 隔離後は、神風特攻の基地があった鹿屋(鹿児島県)に派遣される予定だった。だが、飛行技術を証明する書類を積んだ船が攻撃を受けて沈没した。

 「また命拾いしましてな」

 沖縄への特攻を免れた。

 生か死か。どちらに転ぶかは偶然の積み重ねだ。

   ◇   ◇   

 同年5月、霞ケ浦海軍航空隊(茨城県)へ転勤。2カ月前の東京大空襲では一晩で10万人の犠牲が出たとされる。日本本土の制空権は米軍が掌握していた。

 「空襲はB29(米軍の大型爆撃機)で、高度1万メートルを飛んどりました。迎撃する高射砲では届きません。ゼロ戦が飛び立っても編隊を組む間に、逃げられてしまいます」

 2日に1回は空襲警報が鳴る。3キロ離れた山の防空壕まで全力で逃げなければならなかったが、爆撃機は来なかった。

 7月中旬だったか。空襲警報が鳴り響いた。

 「どうせ空振りやろ思とりました。途中にある大きな木に寄っかかり、昼寝や言うて4、5人で休んどりました。そしたら、基地から上官が自転車でやってきて逃げろと」

 渋々、壕に向かった。先着していた同期の河村利美が、「遅かったやないか」と伊原の背中を押した。

 「防空壕に転がり込んだ瞬間、ドーンと爆音がありまして、土が落ちてきた。壕のトンネルが崩れんか心配でした」

 敵機が飛び去った。壕から出ると、壕に入ろうとしていた20人が折り重なるように倒れていた。

 「ワシを先に入れてくれた河村を揺すっても返事はあらへん。即死でしたわ。口も鼻も土まみれ。爆弾の破片に加え、爆風で石や土が凶器やったんでしょう」

   ◇   ◇  

 その数週間後。ロケット型戦闘機「秋水」の試験発射が知らされ、実物大の模型が霞ケ浦に到着した。

 秋水は3分半で高度1万メートルに到達する性能を誇るとされ、B29を迎撃するのが目的だった。

 「ロケットは燃料を噴射して上昇するだけ。特攻機やとすぐ分かりました」

 志願者が募られた。

 「志願しました。生きることはとっくの昔に諦めとりましたから。秋水での体当たり攻撃は苦痛もないし、木っ端みじんに死ねて本望と」

 毎日特攻に向けて身の回りを整理し、遺品目録をしたためた。軍歌集、手紙、シャツ、筆記具…。だが、秋水はなかなか配備されなかった。

 18歳の伊原は、特攻の意味を自問した。

 「秋水が早く来ないと日本は負ける。でも早く来たら俺は死ぬ。なんとも言葉にできません。『滅私奉公、国家同胞の危急を助け、鬼畜の外敵を滅ぼすため』と思っておりました。自己暗示ですな。そう思わないと恐怖に押しつぶされておりました」

   ◇   ◇

 戦闘機や戦車、映画の戦闘シーンは、かっこいい。それが殺し合うための兵器だと分かっていても、そう思ってしまう。一方で、兵器の使い道を考え、戦争資料の遺体の写真を思い出すと、嫌な気持ちになる。

 ロケットごとB29に体当たりするなんて、想像の範囲を超えている。

 だが、わずか74年前、18歳で「木っ端みじんに死ねて本望」と思えた伊原が目の前にいる。穏やかな表情で笑っている。

 「当時は、難しいことは何も考えなかった。殺すか殺されるか。軍隊は命令通りに動くだけ。自分が米兵の立場でも迷わず爆弾を落としとったと思います」

 そして、一息ついた後、付け加えた。

 「爆弾の下は地獄絵図です。勇ましい話は現実を美化しとるだけ。戦争の残酷な本質を、絶対に伝えなならんのです」(敬称略)(藤井伸哉)

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