明石

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1995年1月18日午後5時30分、神戸市東灘区本山中町4
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1995年1月18日午後5時30分、神戸市東灘区本山中町4

 JR西明石駅(兵庫県明石市)南のはなぞの広場。17日早朝、私はここで阪神・淡路大震災の犠牲者追悼集会を取材していました。

 この広場は震災後、50戸の仮設住宅ができた場所です。5時46分に合わせ、集まった約80人が静かに黙とうします。各地で、たくさんの人が、それぞれの「あの日」を思い浮かべながら、同じ時間を過ごしたことでしょう。

 25年前、私も神戸市東灘区で被災しました。死んでいても不思議ではありませんでした。

 しかし、これまで自分の体験を積極的には話していません。親しい人を亡くしたわけではなく、けがもしていない。長い避難生活もありませんでした。もっと苦しい人がいる。それに比べれば--。

 ですが最近、書き残す意味を感じるようになりました。申し訳なさが震災の記憶を埋もれさせているのではないか。25年の節目に、私の経験も記しておこうと思います。

 あの朝、私は10階建てマンションの7階にいました。寝ていたのではありません。新聞配達のアルバイトをしていて、マンションの通路にいたのでした。

 前年の春から大学生になった私は、同市東灘区の新聞販売店に勤めながら通学し、西岡本1~3丁目の約250軒を担当していました。午前3時半ごろから2時間半かけて配達します。夕刊もありました。

■5時46分

 雲の少ない日でした。午前5時46分、配達は終わりかけでした。

 7階で揺れが始まったとき、なんだか足が地に着かないような、おぼつかない感覚がしました。

 「地震だな」と思ううちに揺れが大きくなり、立っていられなくなりました。「ここはマンション。コンクリートの塊が頭に落ちてくると死ぬ」。両手で頭を抱え、その場に座り込みました。

 よく言われる「下から突き上げる揺れ」は記憶にありません。多くの人が寝ていた時間帯で、最初の細かい揺れが感じられず、激しくなって初めて目が覚めたからではと思います。

 揺れは10数秒だったのですが、体感では少し長く感じました。実際には揺れていなくても、体が「揺れている」と過剰に反応していたかもしれません。

 7階の通路から見下ろすと、普段ははっきり見える町並みに、もやが掛かっているようでした。そのとき、それが何なのか分かりませんでした。まだ暗かったからです。

 エレベーターは動きません。階段で1階まで降り、道路に出ると電柱が根元から折れていました。木造住宅が崩れ落ちています。マンションの7階から見たもやは、家が崩れて舞い上がった土ぼこりでした。

 新聞配達の途中ですが、すぐ店に帰らなければと、バイクで走りだしました。すると、垂れ下がった電線が首に引っかかり、バイクごと転倒しそうになりました。電線も暗くて見えなかったのです。

 注意しながらゆっくり帰ろうとすると、コンクリート製の強固なJRの高架が崩れ、道をふさいでいました。

 バイクを放置して走って帰ると、4階建てだった新聞販売店の1階が斜めに倒れ、隣のマンションにもたれかかっていました。

 徐々に明るくなってはじめて、周辺の古い木造住宅のほとんどが崩壊していることが分かりました。コンクリートの古いビルも傾き、甲南本通り商店街の入り口も崩れていました。

 倒壊した家に住民が閉じ込められているというので、同僚と一緒に男性を助け出しました。寝間着のまま、顔から出血していました。高齢の男性は「寒いなあ」と一言。自分に起きた状況が理解できていません。認知症で家族が介護していたのでしょう。看護や介護を必要とする人が突然、修羅場に投げ出されてしまったのです。

 あの朝、私がいたJR摂津本山駅周辺は阪神・大震災で最も多くの被害を受けた一帯の一つです。

 神戸大の同窓生も39人が犠牲になりました。散歩中、倒壊した建造物の下敷きになった市民もいます。私は偶然、生き延びたのでした。(吉本晃司)

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