明石

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1995年5月13日、神戸市東灘区本庄町
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1995年5月13日、神戸市東灘区本庄町

 神戸市東灘区で新聞配達中に被災した私は、数日ほど中学校の体育館で避難所生活を送りました。

■実家に帰宅

 私の実家は徳島県です。避難所に長期間いても何もすることがないと感じ、実家に帰ることを検討します。ボランティア活動をするという発想が出てこなかったのも、今となっては申し訳ない気持ちです。

 震災から数日は神戸近辺の交通網が途絶え、移動する手段がありません。18日に阪急梅田駅から西宮北口駅まで電車が復旧していましたが、避難所ではそれを知る手段がありませんでした。

 20日ごろ、東灘区から徒歩で国道2号を歩き、西宮北口駅に到着。そこから電車を乗り継いで和歌山港まで行き、フェリーとバスで実家に帰りました。親は、私が無事であることをこのとき初めて知りました。私の勤め先に連絡を取ろうとしたようですが、つながるはずがありませんでした。

 被害の大きさを初めて知ったのも徳島に帰ってからでした。

 阪神高速道路の倒壊、長田区の商店街の火災もテレビで知りました。新聞配達は当面休止になり、3月まで自宅待機になりました。

■1月末

 神戸大学から学生の臨時招集の通知が来て、31日に大学へ行きました。手渡された書類の最初に書かれていたのは、亡くなった学生の名前でした。私が所属していた法学部だけで6人、大学全体では教職員を含め41人が亡くなりました。期末試験はほとんどがレポート提出で代用になり、4月まで事実上休校になりました。

 震災によるがれき処理が公費負担になり、私が住んでいた文化住宅もがれきが撤去されることになりました。何らかの理由で撤去の日を知り、立ち会うことができました。隣部屋の女性もいました。大学の授業の資料など、わずかな書類だけ持ち出すことができました。

 その女性から聞いたのだと思います。「この一帯の文化住宅で十数人が亡くなった」「左隣に住んでいた女性は2階の下敷きになり、自衛隊が遺体を掘り起こすのに3日かかった」。もし私がこの文化住宅で寝ていたら、死んでいたでしょう。

 新聞配達をしていても、あの時間、古い住宅地にいたらどうなっていたか分かりません。生死は紙一重でした。

■今、思うこと

 震災は、生死についてあまり深く考えたことがなかった私の価値観や意識を大きく変えました。いつ何があってもおかしくないという、ある種の無常感。今、楽しいことより将来の安心を優先する選択。

 20代前半であの震災に遭ったことは、人間的な成長過程を考えると、無意味ではなかったと思うことがあります。大切な人を亡くしたり、財産を失ったりした人がたくさんいたことを思えば、震災体験を「よかった」と総括することはできません。過去の不遇な出来事を、自分が納得できる形で理解しようとしているのかもしれません。ただ、自分の体験を積極的に話そうとは思いませんでした。

    ■   ■

 今年の17日。25年の節目で取材に訪れた西明石の広場には、この日初めて追悼集会に来たという女の子がいました。前日、学校でボランティア団体の話を聞き、興味を持って早朝に来たのでした。

 もし彼女に何か聞かれたら、私はどうしたでしょう。いまだに、短い言葉で伝えられる言葉が見つかりません。やはり口をつぐんだかもしれません。

 震災を思い出したくない人がいます。話したくない人もいます。話したくない人は話さなくていいのです。話してもいいと思えるようになったとき、新聞をはじめとするメディアは、持って行き場のない心情を受け入れます。

 生き残った私のささやかな役割だと感じています。(吉本晃司)

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