明石

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川崎航空機明石工場の空襲の記憶を語る大野美惠子さん=明石市
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川崎航空機明石工場の空襲の記憶を語る大野美惠子さん=明石市

■勤務先の川崎航空機明石工場で空襲 明石市の大野美惠子さん(92)

 神戸市葺合区(現中央区)で生まれ育ち、大阪の女学校に通った。卒業してすぐ、16歳で川崎航空機明石工場の診療所に就職。受付やカルテの管理など医療事務が主な仕事でした。

 兵庫県明石市は1945(昭和20)年に6回の空襲を受けた。1月19日は兵庫県内で最初の本格的な空襲だった。標的は戦闘機を製造していた川崎航空機だった。

 1月の空襲の時は幸いにも診療所におらず、北に約6キロ、今の平野小学校(神戸市西区)辺りにあった建物に薬を疎開させていたので、2、3人で車で取りに行ってました。突然「ダダダ」と地響きのような音が聞こえた。

 空襲なんて初めてやから最初は何か分からん。工場の方を見ると大きな煙が上がっていた。慌てて帰って来たら診療所は焼けてなくなり、工場の建物も鉄筋だけになっていた。

 工場は長い平屋が何棟か並び、端っこに滑走路があった。車が通れるように道も。飛行機の部品はあんまり見てたら怒られるから、ちょこっとのぞいたことがあるくらい。入り口を入って真っすぐ進むと診療所があった。事務所は10人ぐらいが交代制で働いてた。看護婦さんとかは何人いてはったんかな。会うこともあんまりなかったからね。

 明石空襲の碑をつくる会の資料によると、川崎航空機明石工場だけで死者は263人に上った。

 診療所は跡形もなく全部燃えた。爆発で鉄骨だけ残って、そこに人の手や足がぶら下がってたんよ。遺体は手足、頭がぽろんと取れてバラバラ。壊れた機械やがれきの間に飛び、紛れてる。言葉が出ない光景。自分はどうすればいいのか分からなくなった。

 主任さんから「遺体を整理しろ」と言われた。言われた通りにやるしかなかった。「あんたらもなんかせないかん」と言われて、もんぺ姿に自分の荷物と薬の入ったかばんを肩にかけて、もう何でもさせられた。みんな「いやあ、そんなん…」ていう感じやったけどね。なにもかも生き残った人たちで作業した。

 自分もいつ死ぬ目に遭うか分からんとは思ってた。街で育った人間やからまさか自分がこんな手当とかをするなんて思いもしませんでしたわ。

 その日は盲腸の手術をしてたから、医者、患者、看護婦長さんも亡くなった。診療所が焼けたゆうて私が帰って来ないから、心配した父親が探しにきてくれた。お互い、「生きとったか」という感じ。「忙しくて帰れんかってん」みたいな会話を交わしたかな。

 1月で寒いし、電気もない。薄暗い中でろうそく1本を頼りに一晩中、遺体を収容した。食べず、寝ず、休憩もなし。私が見た遺体は男の人ばっかりやった。

 働いてた人はみんな服の胸と足に住所と名前を書いてたから、名前が分かる人は木の長細い棺おけに入れて棺おけに名前を書く。もともと工場にあったのか、用意したのか。五体満足ちゃう人もたくさんあった。

 受付に名前を書いて、家族の方が来たら遺体を持って帰ってもらう。身元が分かった人と分からなかった人は半分ずつぐらい。教室みたいなところに遺体がどんどん並べられて。次々と人が運ばれてきて休む暇もなかった。怖いとか、逃げ出したいとかは思わんかった。

 「もう帰ってええで」。そう言われて次の日の昼すぎぐらいに家に戻れた。死んだように眠りました。

 1月の空襲は大蔵、大久保などにも及び、約半時間の空襲で川崎航空機明石工場を含め、322人が犠牲になった。(川崎恵莉子)

    ◇

 太平洋戦争の終戦から75年。私たちが住んでいる明石のまちは空襲で壊滅的な被害を受けました。戦火は日本各地に及び、大勢の尊い命が失われました。戦争がもたらした惨禍、次世代に託す思い-。死も覚悟した過酷な体験を持つ女性3人のお話に耳を傾けます。

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