明石

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「戦争は2度と起きてほしくない」と語る大野美惠子さん=明石市
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「戦争は2度と起きてほしくない」と語る大野美惠子さん=明石市

■勤務先、自宅で複数回の空襲体験 兵庫県明石市の大野美惠子さん(92)

 川崎航空機明石工場(現・川崎重工明石工場)が1月の空襲で焼けてしまった後、勤めていた診療所は今の市立市民病院(明石市鷹匠町)の辺りにあった川崎航空機の青年寮に移ってね。空襲の2日後ぐらいからそこで働き始めた。処方箋に書かれた薬を渡したりもしました。

 1945(昭和20)年、6月9日。再び明石に爆弾が投下された。明石公園周辺の市街地が被災。明石が受けた6回の空襲のうち最も多くの犠牲者を出した。

 明石公園は学徒動員で同い年ぐらいの女の子がようさんおって、ようさん死んだ。空襲警報は鳴ったけど、みんな大丈夫やと思って遊んでたし、防空壕に入らず外に出とった。あの爆弾は間違えて落とされたと、後からそう聞いた。

 私らもけが人の手当をせえと。もう助からへん人はほっとけとも言われた。助かる子のところに行けと。

 でもまだ生きてる子もおるのにほっとかれへん。ちょうど同い年ぐらいの女の子やったかな。運ばれてきて、髪の毛が頭の皮膚ごとベロッとはがれてしまってた。体は無事やったけど、一番大事な頭がやられとったからね。たぶん爆弾の破片が頭に当たったんやと思う。「分かる?」と声をかけても返事はなかった。かすかに心臓は動いてた。

 先生は「その子は助からんねんから、ほっとけ」と。けれど「親がこんな姿を見たらどう思うやろか」という思いでいっぱいだった。ちょっとでも包帯を巻いてたら「あんたは手当してもらったんやな」と親も思うはずや。自分と同い年やし、女性やし、せめて包帯だけでもと思って、友達2人、頭に包帯を巻き付けて次の手当てに向かった。あの子はどうなったんか。誰かも分からんけど、ずっと頭に残ってました。

 お昼はおにぎりを一個配ってくれてね。小さい三角おにぎり。手に血が付いとったけど食べたよ。洗われへんからね。それでもおいしかったな。

 明石への空襲は6月だけで3回、7月は2回を数えた。明石駅周辺など市街地が狙われた。6回の空襲で約1500人が命を落とした。

 7月7日の空襲やったかな。私らが逃げらへんように、米軍の爆撃機が海の方から街に向かって焼夷弾を落としてきた。当時は岩屋神社(同市材木町)の辺りに住んでいて、家族で近くの防空壕に逃げ込んだ。そこも危険やって言われたから海まで必死に走った。

 街に煙が充満してたから「息したらあかん」て言いながら、母親が上の弟、私が下の弟の手を引きながら逃げたのを覚えてる。家から海までは短い距離やのにすごく長く感じた。

 海まで逃げて「やれやれ助かった」と思った。海には近所の人が集まってて、冷たい海に漬かって爆撃機が頭の上を飛び去るのを待ってた人もいたね。

 焼夷弾の音は今でも忘れへん。ブサ、ブサ。焼夷弾は小さいけど後から分かれて降ってくるからね。空襲で家は焼け、青年寮のところにあった川崎航空機の社宅に家族で住まわせてもらうことになった。

 診療所の所長さんは良くしてくれてありがたかったけど、お父さんにも言われて終戦後、川崎航空機をやめさせてもらった。それから戦争のことは思い出すことはなかった。生活はゼロからやったし、食べ物も全然なくて生きるのに必死やったから。

 私らは戦争の時代に生まれた。同世代の人と話してると、田舎におったからとか、親のところにおったとかで経験してない人もおったね。戦争でいろんな経験をさせてもらったなとは思う。一番は我慢すること。言いたいことは言えず、言われたことをやるしかなかった。今の若い子からしたら想像つかへんかな。

 男の子はみんな出征してしまって、親は行ったらあかんとも言えなかった。いっぱい人が死んだ。あんなことは2度とあったらあかん。戦争は絶対だめ。あったらあかんと、みんなで記憶を残していってほしいね。2度と起きんように。(川崎恵莉子)

    ◇

 太平洋戦争の終戦から75年。私たちが住んでいる明石のまちは空襲で壊滅的な被害を受けました。戦火は日本各地に及び、大勢の尊い命が失われました。戦争がもたらした惨禍、次世代に託す思い-。死も覚悟した過酷な体験を持つ女性3人のお話に耳を傾けます。

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