明石

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女学校時代の記憶をたどる松本ヤスさん。「1、2年生は勤労奉仕の日々だった」=明石市
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女学校時代の記憶をたどる松本ヤスさん。「1、2年生は勤労奉仕の日々だった」=明石市

■勤労作業と明石空襲を体験 兵庫県明石市の松本ヤスさん(88)

 1931(昭和6)年、明石市に生まれました。教員だった両親の影響で明石女子師範学校付属小学校、そして44年に明石高等女学校(現明石南高校)へ進んだ。勉強したいと入った学校は、授業ではなく勤労奉仕の毎日でした。

 戦時中の労働力不足を解消するため、43年に「学徒戦時動員体制確立要綱」、44年に「決戦非常措置要綱二基ク学徒動員実施要綱」を相次ぎ閣議決定。中等学校以上の生徒が兵器や食料の生産現場に動員された。

 女学校では普通の授業はほとんどなく、2年生以上は川崎航空機明石工場(現川崎重工明石工場)などで、1年生は食料生産の勤労奉仕をさせられた。

 くわで運動場を耕しサツマイモ畑に。畑なんてやったことない女学生が、天秤(てんびん)棒を担いで下肥をまく。でも嫌がる者なんていなかった。日本が勝つと信じていたんでしょうね。

 週2回は先生に引率され、30人ぐらいで今の神戸市西区の太山寺へ。裏山に松林があり、大きい木をのこぎりで切る。それをおので割って家庭配給用のまきにする。お昼は蒸したサツマイモを食べ、午後も作業。まきを背負って伊川谷にあった役所の支所まで運んだ。

 疲れてよろよろやけど、先生が見ているから休めない。卒業後に「倒れへんか心配で横を歩いた」と言われたが、私たちからしたらただ休めないだけだった。

 45年、明石は空襲の標的に。記録によると1月19日には62機の米軍機が154トンの爆弾を投下。川崎航空機明石工場が狙われた県内初の本格的な空襲だった。

 45年の3学期から、北王子町の県農事試験場でイモやダイコンづくりの勤労奉仕が始まった。1月19日は警報が鳴ったかは覚えていないが、突然集合がかかり、「即、解散」が告げられた。早く家に帰りたい一心で4、5人と走った。

 途中の通りに立っていた警防団のおじさんが「今頃そんなところ走っとったら標的になる」とえらい怒られて。軒下を伝って隠れながら走った。家の裏庭にあった壕(ごう)に飛び込んだ。

 途端にものすごい爆風。地震みたいに揺れて壕の中の砂が震えた。「生き埋めになる」と言ったのを覚えている。

 この時の壕は穴を掘って上にトタンをかぶせていた程度のもの。空襲がどんなものか知らなかったから深さも分からなかった。これではあかんと、家を建てるような木を使って大工さんに造ってもらった。

 川崎の工場がやられたので、私たちの校舎が工場代わりになった。2、3、5年生はそこで働いた。私も45年9月から働く予定だったが、終戦で行くことはなかった。

 明石市内は6月の9、22、26日の計3回、空襲があった。同9日だけで24機が144トンの爆弾を落とし、644人の死者が出た。

 狙われたのは明石公園西側の軍需品工場だった。市からは空襲の時は明石公園に逃げるよう指示されていたが、私としては高齢の父母を置いていけない。自宅庭の防空壕を選んだ。

 明石公園では遺体が木の枝に引っかかったり、頭が欠けていたりしたと後で聞いた。公園に逃げて助かった女学校の友人は「生き地獄やった」と。

 空襲で飛行機が去った後で「ぽーん、ぽーん」と日本軍の高射砲の音が聞こえた。その時初めて、これでは負けると思った。報道は日本軍が勝つと伝えていたけど、信じられなくなった。当時はそれを口に出すことはできなかったけれど。

 幼稚園と女学校で一緒やった友人は破片が首の辺りに当たり、脳みそが飛び出し外科に入院していると聞いた。何とか生き残ってほしいと別の友人と2人、お見舞いに行った。病院にはそんな人がいっぱい入っていたんやと思うわ。取り合ってくれなかった。

 私たちもいつそんな目に遭うか分からへん時代やった。「気いつけなあかんね」と同行の友人には言ったけど、それ以上どうしようもなかった。(長沢伸一)

    ◇

 太平洋戦争の終戦から75年。私たちが住んでいる明石のまちは空襲で壊滅的な被害を受けました。戦火は日本各地に及び、大勢の尊い命が失われました。戦争がもたらした惨禍、次世代に託す思い-。死も覚悟した過酷な体験を持つ女性3人のお話に耳を傾けます。

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