明石

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「この辺りまで空襲で焼けた」。当時の記憶を語る松本ヤスさん=明石市
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「この辺りまで空襲で焼けた」。当時の記憶を語る松本ヤスさん=明石市

■市街地の自宅で明石空襲体験 兵庫県明石市の松本ヤスさん(88)

 1945(昭和20)年6月の終わりぐらいやったと思う。当時の食料は国の配給。でも配給切符は10軒に3、4枚しかなかった。くじで勝って切符を手に入れた。銀座通りに面する角の家が配給所で、20人ぐらい並んでいた時だった。

 「バラッバラバラ」と音がした。警報がないのに何やと空を見上げると、南の民家のすぐ上を飛ぶ焦げ茶色のグラマン戦闘機。1人が操縦し、もう1人が銃を構えていた。

 これはあかんと向かいの家の戸を開けて「すんません。機銃掃射やから入れて」。家の人はすぐ入れてくれた。そこら中に機銃掃射の弾が跳ね返る音がする。怖くて家の奥にいた。配給の列は一斉にばらけたけど、中には負傷した人がいたと聞いた。あんなに近くに戦闘機を見たのはあの時だけ。一番怖かった。

 米軍は攻撃対象を焼き払うために焼夷(しょうい)弾を使用した。明石に初めて焼夷弾が投下されたのが7月7日。975トンが市民を襲った。

 深夜にB29の波状攻撃があった。「ガサガサガサ」。爆弾とは違う音がした。油脂焼夷弾が落ち、市街地のあちこちで火の手が上がった。壕(ごう)の中から真っ赤な空が見えた。地獄の空みたいやった。目と耳を手で押さえ、口を開けてじっとしていた。爆風で内臓が飛び出さんようにと、そう教えられていたんよ。

 何回も飛行機がきたんよ。3べんぐらい済んで、もう終わりかなと思ったら、2分もすると、「ウワー」と飛行機の降下音と爆音が聞こえてくる。その度に今度はあかんかなと思った。

 外に出ると油の臭いがして近所の家が燃えていた。やけどをしないよう、家の前にあった防火用水に防空頭巾を漬け、頭に巻いた。初めは水道が出て消火栓をつないだけど、すぐあかんようになった。各家でセメントの入れ物に用意していた防火用水程度では消せず、うちの井戸からバケツリレーで消し止めた。自宅から東と南方向のいずれも4軒目まで燃えた。うちは当時わら屋根の古い家だったので、よく残ったと思う。

 翌日、駅前通りから見ると、明石川の向こうまで見渡せるぐらい。見渡す限りの焼け野原。大きな蔵や警察署、銀行がぽつん、ぽつんとあるぐらい。明石全滅みたいなものやった。ショックやった。

 人丸山のそばに住んでいた同級生の女の子は、自宅の防空壕の入り口に焼夷弾が直撃。家族全員が亡くなった。終戦の直前ぐらいに聞いたけど、家族がいないので弔問にも行けない。思い出がよみがえってつらかった。

 戦後20年以上たって偶然出会った女性が、その友人のお姉さんだった。結婚で家を出ており、助かったらしい。卒業写真のコピーなどを送った。「何も残っていなかったから」と泣く姿に熱いものがこみ上げた。

 日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は終わった。45年8月15日。昭和天皇が戦争終結を告げる「玉音放送」が流れた。

 天皇陛下のお言葉があると聞き、自宅のラジオ前に座って待っていた。雑音で聞き取りにくく、何が起きたのかよく分からなかった。父が「負けたということやな」と。父は明治生まれで戦争に負けた日本を知らなかった。私はただあぜんとしていたと思う。

 戦後、焼け跡の整理は大変やった。うちは家が残ったから新聞を売って暮らした。古新聞を1枚1円で魚店さんが買ってくれた。必死に数えて持って行った。

 食べ物がなく、栄養失調にもなった。医者は「心臓かっけです」。心臓が腫れたみたいになって数カ月、学校を休んだ。

 戦時中、私が通っていた明石高等女学校には敵国語の英語の授業はなかった。いま考えると米国のこともよく分からずに神風が吹くからとか、あほな話やったと思うわ。

 戦争はたとえ勝ったとしてもろくなことはない。たくさんの犠牲が出る。どんなことがあっても二度と戦争はしたらあかん。戦争は百害あって一利なしや。(長沢伸一)

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