明石

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「個人を抹殺してしまう」。戦争の怖さを訴える入江一惠さん=明石市
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「個人を抹殺してしまう」。戦争の怖さを訴える入江一惠さん=明石市

■高松空襲を体験 兵庫県明石市の入江一惠さん(90)

 1945(昭和20)年の夏頃から、勤労動員で働いていた高松市の倉敷飛行機工場も狙われるようになった。工場の空襲警報が鳴り、機銃掃射でバラバラバラと弾が落ちてくる中、民家の軒下に体をぺたっとひっつけてしのいだ。今日も逃れて生きられたという生活が続いた。工場は危ないから寮を出て、家から工場に通うようになりました。

 45年7月4日午前2時56分。寝静まる高松市で空襲が始まった。B29爆撃機116機が来襲し焼夷弾を投下。住宅、官公庁、学校、会社などが被害を受け、死者は1359人に上った。

 空襲で工場も高松も焼け野原になった。自宅は高松市の西方で被害を免れたが、毛布をかぶってまちが燃えていくのは見た。その後、親戚を捜しに市街地に行ったが、何もかもなくなっていた。火がくすぶっていて遺体もごろごろあった。親戚は亡くなっていた。

 しばらくして工場に再び通い始めると、やすりの目立てをしろと言われた。暑い暑い8月。工場は焼けて屋根もなかった。黒焦げのやかんにサッカリンと水が入っていた。なまぬるくて体に悪いとは知りつつ飲むしかない。

 今まで飛行機を作っていたのに。何の役に立つのかと疑問でした。今までやれと言われたことに疑問なんて持たなかった。命令されたらその通りにやってきた。初めて自分がやっていることをおかしいと思った。誰に言われるのでもなく、自分の体で感じました。その時は日本が負けるなんて知らなかったけど、敗戦のむなしさをそこで感じた。

 45年8月15日正午、玉音放送がラジオから流れた。太平洋戦争の終結を昭和天皇が自ら伝えた。初めて聞く天皇の肉声で国民は敗戦を知った。

 8月15日、大事な放送があるから事務所に集まれと言われた。壊れたようなラジオだから、玉音放送の内容はよく分からなかった。班長が「戦争をやめたと言ってる。弱虫どもが天皇陛下に泣きついたんやろ」と言った。周りはまだ戦争をやるつもりだった。しばらく家で待機となり、9月1日から学校が再開した。

 女学校は鉄筋で無事だったので、焼けた県庁が引っ越してきた。私たちは隣駅にある小学校で授業をした。音楽、生物、倫理、国語。国語は源氏物語で、理科はメンデルの法則。音楽はからたちの花を教えてもらった。

 校長がある時、「みんな外を見ろ。いろんな花が咲いているじゃないか。それぞれの花に個性がある。人間も同じ。みんな個性を磨いていかないといけない」と言われた。

 先生から「自由」「平和」「個性」という言葉がぽんぽん出てきた。戦争一色の授業しか受けていなかったので、初めて聞く言葉だった。日の光や空が今までと違うように見えた。

 軍国少女だったけど、いろんな経験を通して自分の価値観は変わっていった。戦争で失われたものを一気に取り戻した。世界が変わったのが鮮烈だった。

 卒業後、私は戦時中に見た栄養失調で顔が青白く腫れた子たちをなくしたいと思って、大阪府女子専門学校(現大阪府立大)に進み、保健科で栄養などを学んだ。

 戦争というのは、個人を全部抹殺してしまうものだ。お国のために、自分がこうしたいとか、それぞれの暮らし全部を封印してしまう。だから、戦後に言われた校長先生の言葉がガツンと頭を打った。個性を持っていいんだ。初めて人間として目覚め、自分が生きてると感じた。

 これまでひたすら何かのために自分をささげて、疑問を持たなかったことが怖い。自分を押し殺していることすら気づかない。今では考えられないと思う。すべての教育がそうなっていたことが恐ろしい。

 貧困や飢えもつきまとう。そこが戦争の一番怖いところだったように思う。今はいろんな自由がある。これからを生きる人たちに、戦争のように自分を押し殺すことなんてことはもうあってほしくない。(川崎恵莉子)

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