明石

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「父との再会を思い出すと今でも涙が出る」という姉の西川幸子さん
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「父との再会を思い出すと今でも涙が出る」という姉の西川幸子さん
「空襲の光景は今でもはっきり覚えている」と語る妹の中野年子さん
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「空襲の光景は今でもはっきり覚えている」と語る妹の中野年子さん

 戦争は私たちの幸せを奪った-。終戦から75年。西川幸子さん(86)=兵庫県明石市=と中野年子さん(82)=同市=姉妹は、太平洋戦争でたび重なる空襲におびえた日々の記憶を語ってくれました。私たちに託された大事なメッセージです。(川崎恵莉子)

 幸子さん 父は奈良県で織物工場を営み、一時は軍服を作っていました。戦時統制で経営が困難になり、会社を畳んで1942(昭和17)年ごろ、生まれ故郷の神戸に近い明石へ戻ってきた。

 南王子町の平屋で両親と私たち3姉妹、祖母の6人暮らしだった。父が出征し、45年4月に母が病死。お葬式もできず、父は生きてるかさえ分からない中で空襲におびえる日が続いた。

 明石は45年1~7月に6回の空襲があった。まず狙われたのが戦闘機を製造していた川崎航空機明石工場。明石公園、市街地へと米軍の爆撃は標的を広げ、犠牲者は約1500人に及んだ。

 幸子さん あの頃はいつ命を失うんやろか、今日は生きられたけど明日は分からん-そんなことばっかり毎日考えてた。

 年子さん 空襲警報のたびに姉が慌てて電球を黒い布で隠していたのを覚えている。末っ子の私は当時7歳。枕元に防空ずきんを置いて、すぐ逃げられるようにしてたわ。

 ある日、「空襲警報発令」の放送が何回か流れて、飛び出ると外は焼夷(しょうい)弾が雨のように降っていた。あちこちで爆竹みたいな音と火の粉が上がり、家の前に指だけ3本くらい落ちてたのを覚えている。近所の練炭工場が炎で真っ赤っか。真っ黒焦げの遺体も見た。

 幸子さん あれは暑かったから6、7月か。昼ごろの空襲だった。私は母親の位牌(いはい)を一斗缶に入れ、土中に埋めて妹たちと逃げ出した。近所の防空壕(ごう)はいっぱいで、祖母ともはぐれてしまった。防空壕に入れなかったら川に逃げろって言われてたから、家の前を流れる細い川に3人で飛び込んだ。

 年子さん 焼夷弾が流れてきて川の水がめちゃくちゃ熱くて。体も熱いから姉が水を掛けてくれた。

 幸子さん 3人で首の下まで水に漬かって、川から出たり入ったり。あれはつらかったなあ。自宅は応接間だけ残して半壊。食べ物もないし、このままでは死ぬと思い、岩岡(神戸市西区)に住む父の妹の家まで歩いて行った。

 年子さん ところが叔母には「面倒は見られへん」って泣きながら謝られた。子どもが5人いたからね。仕方がないとは思っても、姉に手を引かれて私も泣きながら来た道を戻った。

 幸子さん あとは二見にいた父の姉に頼るしかなかった。腰の曲がった祖母には「先に行きなさい」と言われたけど、置いてはいけない。途中でおじさん3人が祖母と妹2人を自転車に乗せてくれた。あの時、助けてもらえなかったら、私らは息絶えていたかもしれん。あの恩は絶対に忘れへん。

 年子さん 伯母は見かねて社宅に入れてくれた。部屋は6畳だけ。子どもが8人いたから、寝るときはぎっしりでした。

 幸子さん 毎日、大豆とナスとさつまいもの茎ばっかり。ひもじかったけど命が助かっただけありがたいと思ってた。

 玉音放送はみんなで聞いてたと思う。日本が勝ったか負けたかは私らには関係なかった。戦争が終われば父親が帰ってくる。それだけを楽しみに生きてた。2、3カ月してから帰ってきたんかな。再会した時は父に3人で抱きついて、一晩中泣いて明くる日も泣いてた。

 年子さん 最近は夢を見ることもないけど、以前は手を引っ張られながら逃げまわる夢ばっかり見てた。早くに亡くした母親のことは全く覚えていない。姉たちが母親代わりで、ほんとに仲の良い3姉妹でした。戦争がなければもっといろんなことができて、幸せだったはず。戦争は私たちの幸せを奪っていった。

 幸子さん 8月15日が近づくと思い出すね。防空壕に入ってたなとか、焼夷弾をよけるために上を向いて歩いてたから転んでばっかりやったなとか。

 戦争のことは絶対忘れたらいかん。たった一つの命。お金で買えるものじゃない。戦争を知らない人に命の大切さを一番に伝えたい。

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