淡路

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昔の地図などを収集し、白石村を探す林幹昭さん=南あわじ市灘惣川
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昔の地図などを収集し、白石村を探す林幹昭さん=南あわじ市灘惣川
林さんが想像する白石村のある半島。各資料から考え、美術大の学生に描いてもらった
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林さんが想像する白石村のある半島。各資料から考え、美術大の学生に描いてもらった
灘と沼島の間にある海。ここに白石村は沈んだのか=南あわじ市灘円実から撮影
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灘と沼島の間にある海。ここに白石村は沈んだのか=南あわじ市灘円実から撮影

 兵庫県南あわじ市の灘地区と沼島の間には昔、半島があり、そこにあった「白石村」が地震で海の底に沈んだ-という言い伝えがある。同市灘惣川の林幹昭さん(71)は2008年5月から古地図や古文書をひもとき、歴史地震、半島ができる自然現象などさまざまな研究を重ねて幻の村を探し続けてきた。10年がたち、小学生向けの防災教育の副読本で紹介されるまでになったが、本当に村があったのか、まだ実証はされていない。林さんは海底の調査を求めている。(高田康夫)

 大阪で働いていた林さんは母親の介護のため灘地区に帰郷。母親が施設に行っている間の空き時間を使って、小学4年生のときに近所のおじさんから聞いた「大きな半島」の話を調べることを思い立った。

 島内だけでなく、徳島などに何度も通い、ありとあらゆる昔の地図を収集。当時の淡路島や灘地区、沼島がどう描かれていたのか調べた。「淡路温故之図」と名付けられた地図には、沼島の西側まで大きく突き出た半島が点線で描かれており、同様の地図は5種類あったという。南あわじ市内の住民が持っていた別の地図には、もう少し小さめの半島が描かれていた。

 天保時代の絵図には現在の灘仁頃付近に「白石」という名前の集落も確認され、土地を失った白石村の人々が移り住んでいた可能性もある。淡路島の地域誌「味地草」にも白石村の記述があるほか、諭鶴羽神社には、白石村の人々が白い石を境内に奉納したという言い伝えが残っている。

 林さんが海上保安庁まで足を運んで手に入れた海底地図には、かつて半島があったことを物語るように海底が浅くなっている部分があった。さまざまな資料を分析した結果、林さんは現在の沼島汽船の発着場付近から沼島に向けて半島が伸び、そこに白石村が実在していたと結論付けた。

 「これまで調べられたことは7割。後は海底に人工的な石垣などが残っているかどうか」と林さん。自身で調査することも考え、調査会社に費用を問い合わせたが、10日間で500万円と個人で出せる金額ではなかった。

 林さんは行政が調査に乗り出すことを期待し、「実証できれば、地震についての歴史がまた一つ分かることになる。今後の南海トラフ地震とも絡めて研究が進むのではないか」と話す。

■白石村沈めた大地震の正体は

 白石村があったとされる半島が描かれた「淡路温故之図」には、1500(明応9)年の大地震で沈んだことが記述されている。ただ、同年には淡路島付近が関係する大地震は見当たらない。もし実在したならどんな地震で沈んだのか。

 南海トラフを震源とする地震は100~150年に1度、この地域周辺に被害をもたらしている。1500年前後でいうと、1498(明応7)年と、1605(慶長9)年だ。白石村も大きな津波や液状化に襲われた可能性がある。

 一方、灘地区と沼島の間には大きな断層帯「中央構造線」が走っている。国の地震調査研究推進本部は、紀淡海峡から鳴門海峡にかけての中央構造線について、最新活動は約3千年前としているが、徳島県鳴門市から愛媛県伊予市にかけては、1500年代に活動したと推定。中央構造線が引き起こした直下型地震が、白石村を沈めたことも考えられる。

 兵庫県教委は林さんから資料収集の成果などを聞き取り、2012年から県内の小学生高学年が防災を学ぶ際に使う副教材「明日に生きる」で白石村について掲載。海溝型、直下型それぞれの地震との因果関係を想像しつつ、「自然の力の大きさというのは人間の想像をはるかに超えたものかもしれません」と締めくくる。

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