淡路信用金庫(淡信、兵庫県洲本市)で理事長、会長を務めた嶋田武司さん(74)が6月に退任した。1963(昭和38)年の入庫以来、神戸など“本土”の営業拠点へ赴任せず、淡路島一筋に56年間の金融マン生活を終えた。高度成長、バブル経済、平成不況…。金融を通して時代を見詰め続けてきた嶋田さんに、思い出を振り返るとともに島内経済の移り変わり、今後への提言を聞いた。(田中靖浩)
-淡信に就職したいきさつを。
「家は裕福でない農家だったので、父は中学生だった私を定時制高校へ行かせて農業を手伝わせようと考えていた。ところが中学の校長と担任が全日制を強く勧めてくれたため、三原高校へ進むことに。このことがなければ、後に金融機関へ就職することはなかったかもしれない」
「高校卒業時の就職試験では、地元の役場と淡信の両方に合格。父に相談したところ『金融機関のほうがいいのでは』と言われ、淡信を選んだ。父は『人より一歩だけ前を見て進め』など、後に私の人生を支える言葉を与えてくれた」
-最初の配属先は
「自宅から近い掃守支店。当時は国道さえ未舗装で、そろばんみたいなデコボコ道を自転車で毎日走り、顧客の家や事業所を一軒一軒営業に回った。毎月の掛け金が1310円の定期積金を勧めるのが仕事。2口も入ってくれる人がいると、それはうれしかった」
-その後の職場は
「湊、福良支店、本店営業部、広田、津井、阿万、都志、由良、仮屋、志筑、市の各支店。2001年に理事に就任するまでの38年間、ずっと淡路島内の営業現場にいた。神戸や明石、西宮には計10カ所の本部・支店があり、本店には審査や人事などさまざまな部署がある。そういったところへの異動も希望していたけれど…」
-特に印象に残っている支店は
「湊支店にいたとき、淡路島の農業に欠かせない『農民車』を開発した前田敬語さん(故人)と取引があった。前田さんが農民車を作るにあたり市場調査を手伝ったり、私が休みの日に農民車をトラックに積み、斜面の茶畑が多い佐賀県へ一緒に売りに行ったりした」
「1991年秋、志筑支店長に。そろそろ異動かなと思っていた95年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた。支店は倒壊を免れたものの、志筑の街は壊滅的な被害を受けた。多くの復興融資を受け付けたり、区画整理事業に関わったりして、結局8年近く勤めた。これがなければ“本土”の支店や、営業以外の部署への異動があっただろう」
-地元金融機関ならではの「地域密着」とは
「営業の職員は、一軒でも多く訪問すること。積金の集金を訪問のツールに使い、毎月お客さんと会う。対面することで要望や悩みを聞き、何でも相談に乗る。そういったことが地域密着だと思う。信用金庫は営利を目的としない、会員組織の金融機関。もうけなければ何もできないが、適切な利潤を得てお客さんに還元することが大切」
-淡路島の経済を半世紀以上見てきて感じることは
「地場産業が振るわなくなった。私が入庫した頃は瓦業界が元気で、島内では大手といわれるトンネル窯を持つ会社が30ほどもあったが、今は6社に。一方で線香は、仏事の需要から癒やしの品へと移行して、フランスへ輸出するなど根強いものがある」
-淡路島の経済、社会が今後目指すべき方向は
「年間1300万人の入り込みを引っ張っているのは観光、飲食。島民みんながおもてなしの心で観光客を迎えなくては。また、淡路島くにうみ協会の理事長を2年あまり務めたことで、芸術や歴史といった文化の力を知った。これも観光客の誘致に役立てたい」
-長年の仕事を通じて出会った淡路島内の人々にメッセージを
「私が入庫した頃の預金総額は66億円。それが今では5600億円。それほど淡信を皆さんに育てていただき、大過なく退任できたのはこの上ない喜び。ただ、人口減少と高齢化は深刻で、何とかならないかと気に掛かっている」
-セカンドライフは、どのように
「現役時代は地域のお世話をしてこなかったので、依頼があれば体の続く限り引き受けたい」
【しまだ・たけじ】1944(昭和19)年、三原郡倭文村(現・南あわじ市)生まれ。三原高校卒。63年、淡路信用金庫に入庫し、11支店と本店営業部を歴任。2001年に理事。常務、専務理事を経て13年6月に理事長。17年6月に会長。今年6月に退職。南あわじ市在住。
