淡路

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1942年、出征直前に撮影された祖父・昌弘
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1942年、出征直前に撮影された祖父・昌弘
県に開示請求し、送られてきた軍歴書類
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県に開示請求し、送られてきた軍歴書類

 僕は、父方の祖父に会ったことがない。

 旧北淡町(兵庫県淡路市)の小学校教員で、自分が生まれる9年前の1973年に亡くなった。まだ57歳で、病気のためだった。

 知っているのは、病院に向かう途中に撮影された白黒の遺影だけ。背広を着て眼鏡を掛け、険しい表情で遠くを見つめている。

 それともう一つ。右の尻あたりに10円玉大の傷痕があった。戦争で銃撃され、弾丸が貫通したらしい。

 子どものころ、一緒に風呂に入ったときに父が尋ねた。「後ろから撃たれたん?」。「前からや」。祖父は一言答え、口を閉ざしたという。

 これまで、記者として戦争体験者を取材する機会があった。数多くの民間人が犠牲になった沖縄戦や神戸空襲、台湾からの特攻隊…。けれど、自分の祖父が経験した戦争はまるで知らない。戦後75年の夏、その足跡をたどろうと軍歴書類を取り寄せ、父や親類から話を聞いた。

    ◇

 祖父の名は、昌弘。旧北淡町内の本籍地や、1916(大正5)年生まれの生年月日を手掛かりに、県地域福祉課に軍歴書類を開示請求すると、大判の写し3枚が送られてきた。「陸軍戦時名簿」が2枚、マラリアの病名が書かれた「証明書」が1枚だった。

 戦時名簿の履歴部分には、細かな字でびっしりと漢字、カタカナで行動記録が記されていた。

昭和十七年八月十五日臨時召集ニ依リ歩兵第三十九聯(れん)隊第四中隊入隊 十一月七日姫路出発 十一月八日下関出帆(中略)十一月十四日中支安徽(あんき)省宿●到着(中略)同地附近ノ警備(●の部分は読み取れない)

 42(昭和17)年8月15日、26歳で陸軍に召集され、11月には歩兵として現在の中国・安徽省付近へ。「警備」が任務だった。41年12月には日本軍がハワイ・真珠湾攻撃を実行。太平洋戦争が始まり、戦勝ムードに沸いたが、42年6月にはミッドウェー海戦で大敗。それまでの勢いがしぼんでいく。そうした戦況下だった。

 昌弘が任務に就き始めたころの中国戦線について、戦史叢書(そうしょ)(防衛庁防衛研修所戦史室著)は「一大転換期」と記している。南太平洋で戦局が広がり、兵力が少しずつそがれていった。中国大陸への派遣軍は「占拠地内の治安粛正」を徹底し、「中国を利用する米英の反攻策動の封殺」などに努めつつあった、と書かれている。

 戦時名簿に戻る。あの傷痕の記述があった。

 十二月七日戦傷(右腸骨右臀部骨折貫通銃創)ニテ徐州陸軍病院入院

 直前に「作戦参加」の文字が見えた。そこで撃たれたのだろうか。

 その後、記録は淡々と行動を刻む。43年2月15日退院、4月5日再び入院、6月11日退院、8月8日から「安徽省固鎭」で警備、9月4日から「江蘇省蘇州」で警備、10月10日マラリアのため「蘇州陸軍病院」入院、そして退院…。

 「警備」や「討伐」に当たりながら広い中国大陸を移動し、45年8月18日に復員。46年1月21日、上海から鹿児島へ戻った。

    ◇

 戦後、昌弘は結婚して3人の子どもに恵まれた。僕から言うと、神奈川と大阪に住むおば2人と、父に当たる。ただ、従軍経験については多くを語らなかったようだ。子煩悩で、どこか抜けていて、ユーモアにあふれた人柄だったという。一方で、大阪に住むおばは「戦争は嫌いや」と話す姿を記憶にとどめていた。

 戦時中の状況をよく語ってくれたのは、昌弘の末の弟(僕から言うと大おじに当たる)。電話すると、87歳の大おじはかくしゃくとして質問に答えた。断片的ながら、いくつかの場面を鮮明に覚えていた。

 印象的だったのは、従軍を終えて昌弘が自宅に帰ってきた日のことだ。まだ子どもだった大おじが帰宅すると、台所から名前を呼ばれた。

 「声が、それまでの兄貴と全然違うんやな。何か違う。兄貴の声やないみたいに」

 3年ぶりの再会を喜びながらも、その違和感は残り続けたという。

 「被害者」にも「加害者」にもなり得る血なまぐさい戦線に身を置いて、昌弘は何を思ったのだろう。軍歴書類や証言をたどって想像を続ける。また遺影を見つめてみる。会ったことのない祖父に少しだけ、近づけたような気がした。(上田勇紀)

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