淡路

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紀淡海峡を見つめながら話す花野晃一さん=洲本市由良町由良
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紀淡海峡を見つめながら話す花野晃一さん=洲本市由良町由良
由良要塞で任務に当たっていた父・十一さん(花野さん提供)
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由良要塞で任務に当たっていた父・十一さん(花野さん提供)
神戸新聞NEXT
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 向かいの和歌山沿岸まで約11キロ、その間に浮かぶ友ケ島まではほんの5キロほどしかない。この狭い紀淡海峡を抜けて大阪湾を目指す敵艦を迎え撃つ。兵庫県洲本市由良地区を中心に、明治時代から第2次世界大戦まで設けられた「由良要塞(ようさい)」の役割だった。

 花野晃一さん(76)=同市=は、今は生石公園として整備されている要塞跡から、海峡を見下ろして笑った。「潮の満ち引きまで頭に入れて、敵艦の甲板を狙うんや。そんなことできっこないのにな」

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 由良要塞は、明治政府が東京湾に次いで2番目に重要視した防衛地だった。1889(明治22)年から17年かけ、由良地区や和歌山県の友ケ島、加太・深山(みやま)地区などに砲台を設置。由良には、1896(同29)年から要塞司令部が置かれ、軍の動向が人々の暮らしに密接に関わっていく。

 要塞には最大で150門の大砲があり、由良の町には約千人の兵が常駐した。しかし情勢の変化により、砲台や兵の数は徐々に減少。昭和初期には、想定する交戦相手が巨砲艦隊から中小艦船や潜水艦に変わり、航空戦力の台頭もあって海岸要塞の価値はさらに低くなる。

 そんな中、由良生まれの花野さんの父、十一(じゅういち)さんは由良要塞で伍長として、大砲を飛ばす角度を計算する任務に就いていた。だが、はるか上空を通過し、大阪や神戸を空襲する爆撃機を相手に、高射砲を持たない要塞はなすすべもなかった。終戦間近には鉄や火薬不足で大砲を撃つことすらできず、塹壕(ざんごう)を掘っているらしい兵士の様子を十一さんが写真に収めている。

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 由良要塞は実戦で一発の砲弾も撃たないまま、その役目を終える。戦後は米軍が要塞を爆破し、当時の軍事資料なども処分された。

 十一さんは要塞司令部で撮影した写真など数枚を手に自宅に戻ったという。戦時中は、許可なく話したり、記録に残したりすると罰せられることもあった要塞の写真を、なぜ父が持ち帰ったのか。当時を知ることができる貴重な資料となったが、時がたっても要塞の様子や任務についてほとんど語らないまま、寡黙な十一さんは55歳の若さで亡くなった。

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 生石公園を歩き、一番南の第一砲台跡にたどり着く。

 生石山は2010年、瀬戸内海国立公園の「生石公園」として、環境省が展望台やスロープなどを整えた。要塞跡は戦争の遺構として、当時のままの姿を今に残す。

 花野さんが砲台の案内板に目を落とす。「大戦中の由良の町は軍隊が主役。軍施設の給仕や掃除をしていた人もいただろうし、常に兵隊に遠慮して生きていた時代。きれいに整備されても、私らの親世代は訪れたくない場所やろうね」。園内にセミの鳴き声だけが響いていた。(吉田みなみ)

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 明治時代から第2次世界大戦まで使われた「由良要塞」。施設は破壊されたが、それでも砲台や弾薬庫跡が由良の町には残る。戦後75年、当時の人々の思いに耳を傾け、要塞の存在について考える。

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