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1945年以前に撮影された由良重砲兵聯隊の兵舎(花野さん提供)
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1945年以前に撮影された由良重砲兵聯隊の兵舎(花野さん提供)

 由良要塞の配備は軍の重要機密とされ、外部へ漏れないよう細心の注意が払われた。その存在は戦時中だけでなく戦後にかけても、人々の暮らしに大きく関わっていく。

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 花野晃一さん(76)がモノクロの古い写真を見せてくれた。「重砲兵第三聯(れん)隊第三大隊兵舎之景」と「司●●●許可濟」(●はかすれて読み取れない)と記されている。要塞の砲手だった父、十一さんが戦後に持ち帰った写真で、花野さんは「軍の許可を得て1945年以前に撮影したもの。由良には憲兵隊の駐屯地があって、写真はもちろん、それ以外も厳しく管理されていた」と話す。

 要塞との距離に応じて、家屋や倉庫の建設、地形の測量や写真撮影などには司令官の許可が必要だった。特に写真と風景画は厳しく取り締まられ、小学校では写生が一切禁止されたほか、結婚式の写真にさえ検閲が入ったという。

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 戦時中、由良要塞では紀淡海峡へ向けた実弾射撃訓練が頻繁にあった。由良の町中に張り紙がされ、期間や危険区域を知らせる。生石山の砲台下近くには、火砲や弾薬などを造る「大阪造兵廠(しょう)」の試射場も設けられた。周辺一帯が立ち入り禁止となり、砲弾の音がすさまじいうなりを上げる。由良では魚が捕れなくなり、生命と暮らしの危険を感じた漁師らが大々的に陳情を行ったとされるが、その後の記録は残っていない。

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 戦後、米軍が砲台の破壊や弾薬の海中放棄などを行い、立ち入り禁止だった要塞近くにも入れるようになる。それが住民にさらなる危険を呼び込む。

 花野さんが幼いころ、生石山付近の海辺には手りゅう弾のようなものがごろごろ転がっていたという。「先輩らをまねて、爆弾を海に投げて爆発させて魚を捕ったことがある。それで大けがを負った子どももおった」といい、「陸でそんなんやから、弾薬が捨てられた海に船を出すのは命懸け。戦後も漁師は危険と隣り合わせやった」と振り返る。

 要塞司令部だった建物は、由良中学校の校舎となった。兵舎は教室に、司令官室は校長室になり、生徒約200人が通った。花野さんの記憶では、校長室につやのある高級そうな木材で造られた大きな机があった。「司令官が使っていたんとちゃうかな」

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 今でこそ、穏やかな波と人々が共存する由良の町。「75年たった今だから考えることはありますか」。改めてそう尋ねると、花野さんは一言つぶやいた。「地元の人にとって、由良要塞は軍に支配されていたころの記憶が思い出される場所。75年たったと言われても、まだ歴史にはできへんな」

(吉田みなみ)

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 明治時代から第2次世界大戦まで使われた「由良要塞」。施設は破壊されたが、それでも砲台や弾薬庫跡が由良の町には残る。戦後75年、当時の人々の思いに耳を傾け、要塞の存在について考える。

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