淡路島の知られざる乗り物「農民車」 その中でもさらにレア車両の開発秘話
2022/02/26 05:30
農民車に乗る野上さん。初期はトヨエースのミッションやデフを使ったという
兵庫県の淡路島の知られざる名物といえば「農民車」。重たいタマネギを山積みにしてぬかるみを走破する、手作り感満載の農耕作業車だ。島南部のタマネギ産地・三原平野の鉄工所で誕生してから60年余り。最盛期には10軒以上が「三原型」を手掛けていたが、島中部の旧津名町でもかつて「津名型」が造られていた。中山間地域で活躍した津名型の開発秘話を、野上自工(淡路市佐野)創業者の野上守彦さん(86)に聞いた。(田中真治)
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野上さんは農家の長男。中学を出ると、米のほか、山で鳴門みかんなどをほそぼそと作っていた。
「運搬するのは牛しかないからな。メシも食わさんなんし、爪がちびて毎日は使えん。格好もようないわな、女の子に臭い言われて恥ずかしいて。牛の尻をたたくのが嫌で、機械使おうと思いついた」
初めは、4Hクラブ(農業青年クラブ)で所有する耕運機の前に一輪車をねじ留めし、かじ棒を付けた。共同防除用の貯水場工事で資材を運んだところ、牛よりも能率が上がった。そこで訪ねたのが、旧西淡町の松帆にあった前田鉄工所。
「耕運機を造りよると聞いて、それやったらこんなんすぐできると思ってな」
実際は、あるじの前田敬語さん(故人)は農民車のパイオニア。製造を始めた1960年ごろから、まだ間もない時期だった。
「三原みたいに広い平野やなくて、果樹園へ行く狭い坂道を上らないかんし、急なカーブで小回りも利かなあかん。設計図みたいな何もあれへん。泊まり込んで、あないしてくれこないしてくれと言うてやな」
三原型のように、フロントに農業用発動機(農発)を積むと、前が重くてスリップする。軽くするため、考えたのがリアエンジン。運転席は真ん中に置き、車幅を切り詰め、後ろのタイヤを一回り大きくした。
「評判ようて、近所から売ってくれへんかと言われてな。アイデアが次々浮かんで改良していったんや」
62年の全国農村教育青年会議技術交換大会(北海道)で「農用万能車」として発表。64年の科学技術週間では科学技術庁長官賞(創意工夫功労者)を受賞した。当時の神戸新聞によると、全長4・15メートル、全幅1メートル。1500キロの荷物を積め、20度の傾斜地でも時速2キロで運搬できたという。
「前田さんについて解体業者に部品買いに行って、見よう見まねで溶接や機械の使い方覚えてやな。修理すんのに、自分の田んぼに小屋を建てた」
野上モータースの看板を掲げたのが67年ごろ。4Hクラブから10人ほどの手を借り、年間200~300台を製造した。値段は十数万円。軽トラックの半値以下なのも歓迎された。
「山の上の道まで舗装してくれへんやん。段々畑や棚田のあるとこはどこでも要った。ミカン作っとった瀬戸内の島にもようけ売れたし、九州や新潟にもいっとった」
だが、70年代初めをピークに、考案から30年ほどで製造は終了。三原型のように農発から自動車エンジンに切り替えることはなく、参入者もなかったという。
「ミカンがあかんようになったからな。農家の規模も、こっちは小さいもん。道がようなったし、四駆の軽トラックがでけた。時代の移り変わりが早かったということや」
息子の幸市さん(59)の代になると、自動車の販売・整備に移行。現役の津名型は減る一方で、「昨年も修理の問い合わせがあったが、部品もないのでお断りした」のが現状だ。
今では事務所の壁にかかる表彰状だけが「農民車の時代」を物語る。