パラオで父が戦死、遺骨収集は「遺族の務め」 淡路市の男性、来年3度目の現地入り

2022/09/24 05:30

パラオで遺骨収集に参加した時の写真を手に、父の戦死などについて話す谷忠義さん=淡路市役所

 淡路市遺族会の会長で、兵庫県遺族会副会長も務める谷忠義さん(87)=淡路市=が、日本遺族会創立75周年の表彰を受けた。これまでに2度、パラオでの遺骨収集に加わった。来年、3度目を予定している。谷さんの父はパラオ沖で戦死し、遺骨は見つからない。それでも「遺骨収集は遺族の務め。他人のことだからと放っておけない」と話す。(中村有沙) 関連ニュース 戦死した父の記念メダル 70年以上を経て娘の手に 途絶えた便り、父の残した113通 文面ににじむ優しい人柄 沖縄戦生き延びた17歳の整備兵 壕で会った「島守」の言葉を支えに


 谷さんの父の義朗さんは天皇を警護する近衛兵だった。除隊後、農業に従事していた。「軍国主義そのもののような人で、銃の扱い方を教えられた記憶がある」という。
 1941年に召集令状が来て出征したとき、谷さんは5歳。家族は食事で、出征した義朗さんの分を必ず用意し、帰りを待った。
 しかし、終戦から2年後の1947年、戦死の知らせがあった。義朗さんは、乗っていた輸送船がパラオ沖で撃沈し、亡くなったという。届いた骨つぼの中は空だった。
 終戦前に祖父とすぐ下の弟も亡くなっており、家族は義朗さん戦死の悲しみに暮れている間もなかった。小学生の谷さんが母の農作業を手伝った。
 谷さんは、淡路信用金庫を定年退職後、「一度は父が戦死した場所へ行ってみたい」とパラオへ向かった。「この海で父が亡くなったのか」と実感。計7回訪れた。
 このうちの2回は、日本戦没者遺骨収集推進協会(東京)の活動に参加した。「悲しむだけで済ませられない。父の遺骨を拾えなくても、一緒にいたかもしれない人や同じ陸軍にいた人の遺骨は拾えるだろう」と思いを込めてきた。3度目の参加に向けて、「高齢で体力は限られるかもしれないが、命が続く限り続ける」と話す。
 日本遺族会の周年表彰は5年に1度で、各都道府県の遺族会役員の功労をたたえている。谷さんは県遺族会の推薦で表彰を受けた。21日に淡路市役所へ報告に訪れた。
 終戦から77年たった今、ロシアによるウクライナ侵攻が続く。緊迫する国際情勢に不安を感じている。「戦争は二度としたくない。一方で近年、日本もいつ攻められるかわからないような状況になってきている。万が一、戦争が起こったらどうなるのか。どうするのか。真剣に考える必要がある」。自問自答し、若い世代に問いかける。

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