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豊臣秀吉が茶々に送った手紙の内容を説明する村井祐樹・東京大准教授=姫路市本町、兵庫県立歴史博物館
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豊臣秀吉が茶々に送った手紙の内容を説明する村井祐樹・東京大准教授=姫路市本町、兵庫県立歴史博物館

 79年ぶりに確認された豊臣秀吉自筆による側室の茶々への手紙は随所に「優しさ」や「気遣い」がにじんでいた。一方、これまで見つかった手紙以外の自筆文書では部下への厳しさが目立つことから、秀吉は「細かい」「しつこい」性格だと捉えられてきた。今回の愛妻宛ての手紙について、専門家は「細かさも裏を返せば気配り」「女性に向けられると優しさになるのでは」と新たな秀吉像を思い描く。

 手紙は、体調が悪かった茶々に「(治療のために嫌なきゅうに耐えて)さすがは秀頼のお母さん」「能を見せたい」「(元気になるように)さんまを送るから食べてほしい」などとあり、温かさがあふれる内容だ。

 一方で、今年3月にたつの市が有形文化財に指定した、秀吉が家臣に宛てた朱印状では、橋などの造営資材の調達が遅れたことを何度も叱責(しっせき)。「神経質で細かい」性格だとされてきた。

 今回の手紙を調査した東京大学史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授は「同じ性質の裏表ではあるが、女性に対してはまめで気が利く面として表れている」と語る。

 さらに「さすがは-」というくだりについて「口語に近いくだけた表現」と説明。手紙を送った当時、秀吉は50代後半、茶々は20代前半。「ずいぶん年下の奥さんに心を許し、愛情を込めていた」とみる。

 また、共に調査に携わった兵庫県立歴史博物館の前田徹学芸員は「別の(茶々と同じ側室の)妻に宛てた手紙にはもっと雑な文面もある」とし「跡継ぎを産んだ母として茶々を尊重していたことが分かる」と指摘している。(宮本万里子)

 【豊臣秀吉と茶々(淀殿)】豊臣秀吉(1537~98年)は天下統一を成し遂げた織田信長、徳川家康と並ぶ戦国三大武将で、大坂城を築いた。茶々は複数いた秀吉の側室の一人で、跡継ぎ・秀頼の母だったことからほかの側室たちよりも位が高かったとされる。今回の手紙が書かれたころは、日本軍が明(中国)と戦った文禄・慶長の役(1592~98年)が休戦状態にあり、秀吉は全国の大名を束ねる関白の座を秀次に譲って太閤に退いていた時期に当たる。

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