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発掘された淵上白陽の営業写真
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発掘された淵上白陽の営業写真
台紙右下の白陽のマーク
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台紙右下の白陽のマーク

 神戸ゆかりのモダニズム写真の先駆者・淵上白陽(1889~1960年)が撮影した記念写真を、石戸信也・兵庫県立西宮高教諭(58)が発掘した。白陽の芸術写真は再評価が進んでいるが、「営業写真は見たことがなく、珍しい」と写真史研究者も関心を寄せる。(田中真治)

 写真は着物姿の学生2人のポートレート。台紙(縦21・5センチ、横13・7センチ)の右下に、「神戸熊内 淵上白陽」と漢字とローマ字でデザインされている。石戸教諭は古い絵はがきや写真の収集で知られ、コレクションの整理中、白陽の台紙に気づいた。

 白陽は、19(大正8)年に神戸・熊内で「白陽写真場」を開業したとされる。22年には「白陽画集社」を六甲に設立し、月刊の写真画集「白陽」を26年まで発行。「構成派」といわれる表現で写真史に名を刻んだ。

 白陽は神戸の前衛美術運動に影響を受け、詩人の竹中郁ら関西学院の文芸グループもその圏内にいたことが知られる。当時、熊内周辺には関学のほか、神戸高等商業学校などが立地。写真の学生について、石戸教諭は「帽子の校章から神戸高商の可能性が高いのでは」と推測する。

 「構成派の時代」展(92年)を企画した竹葉丈・名古屋市美術館学芸員(56)は「営業写真の仕事はほとんどしていなかったと考えていた。台紙は知られていない」と驚く。熊内の写真館では、前衛的な「円と人体の構成」(26年)など「白陽」誌で発表した作品を撮影していたと、白陽の弟子は回想していたという。

 精巧な印刷の「白陽」誌は採算を度外視した発行だったことから、「写真館経営と二足のわらじを履いていた時期があったのでは」と指摘。「白陽が芸術写真家として立つまでの重要な資料で、神戸の写真史にとっても貴重だ」としている。

 ▽写真館の商号変遷も確認

 淵上白陽が1919(大正8)年に開業したとされる神戸・熊内の写真スタジオについて、商号が27(昭和2)年前後で変わっていることを、石戸信也・県立西宮高教諭が調査で明らかにした。

 「神戸市商工名鑑」は、写真業や写真商を立項。27年版では、本名の「淵上清喜」が「熊内橋六丁目七」の住所で記載されている。しかし、25年版では「渡部写真館 渡部勇」が同住所で営業。30年版では「白陽社写真場 森本立躬」に名義が換わっている。

 渡部と白陽は、20年発足の写真団体「神戸赤窓会」(現・赤窓会)の創立メンバー。大阪の原田写真館にいた森本は、白陽が設立した「日本光画芸術協会」の会員で、「白陽」誌に作品や技術研究報告が掲載されている。

 白陽が、熊内に写真場を構えるまでの詳しい経緯は分かっていない。また、27年には大阪・堂ビル内に写真場を開設、28年には満州(中国東北部)へ移住している。

 石戸教諭は「雇われていた写真館を大正末に譲り受け、渡満後は森本に任せていたのでは」と推測する。

 ただ、神戸新聞21年1月の「著名写真館案内」には市田写真館や大紀写真館などと並び、「熊内橋通六丁目 写真場 淵上白陽」と掲載。神戸市写真師会々報では、第1号(20年10月)の名簿に同住所で記載された後、第5号(22年4月)では「白陽館 渡部勇」が、第17号(26年4月)では「白陽社写真場」が同住所で新入会として案内されている。

 森本の名は第21号(27年8月)から現れ、評議員を務めるも、32年に病気で辞退を表明。大紀写真館の2代目福留勇さん(故人)によると、「写場の採光の研究をしたり、暗室で使う時計を作ったりと器用な人だったが、早く亡くなった」という。

 白陽の神戸時代や当時の写壇については、まだ発掘されるべきことが少なくない。

 【淵上白陽(ふちかみ・はくよう)】熊本県菊池市出身。佐賀や長崎で写真を学び、1918(大正7)年に来神、布引の川崎財閥邸にスタジオを開設したとされるが、詳細不明。22年に日本光画芸術協会を設立して作品公募や展覧会を開催した。28~41年は、中国で満州写真作家協会を設立し、グラフ誌制作に従事した。戦後は東京に居住し、建築写真や印刷会社の仕事に携わるが、作家活動の第一線からは退いた。

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