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「今は2人の淳子がいなくなって虚脱状態です」と話す唯川恵さん=東京都港区(撮影・藤森恵一郎)
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「今は2人の淳子がいなくなって虚脱状態です」と話す唯川恵さん=東京都港区(撮影・藤森恵一郎)

 「2人の淳子に導かれて書いてきた」。8月に完結した連載小説「淳子のてっぺん」が単行本になり、作者の唯川恵さんは執筆時をそう振り返る。女性として初めてエベレストに登頂した登山家・田部井淳子さんと、その生き方をモデルにしたヒロイン田名部淳子。両者と共に歩んだ道のりは、女性を描き続けてきた唯川さんにとっても、新たな挑戦の連続だったようだ。(平松正子)

 小説では1939年の淳子誕生から、75年のエベレスト登頂までを描いた。本人による自伝のような迫真の描写が続くが、「田部井さんをモデルにしているけれど、作品はあくまでフィクション」。実在の人物を描くのも初の試みだった。

 「アンナプルナ3峰やエベレストに女性だけの隊で登った事実は動かせないから、そこは資料を読み、関係者に取材を重ねた。一方で、友人の勇太や麗香など架空の人物を登場させ、淳子と話し合わせることで、物語を膨らませていった。田部井さんにも『好きに書いていい』と言ってもらったので、事実を曲げることなく、それに引っ張られることもなく書き進めた」

 女性への差別意識が色濃く残っていた昭和の半ば。登山を始めた当初から、淳子には「女なんかに」の言葉が幾度も浴びせられる。「山の上は、世間一般よりもひどい男社会。装備だって男性用だから、当時の女性登山家の苦労は計り知れない」。しかし、そんな困難を乗り越えた者だけに得られる深い喜びもあり、作中で余すことなく語られる。「誰ひとり足跡を付けていないルートを開き、山頂に立つ。その幸福は、年間数百人がエベレストに登る今では望めないでしょう」

 とはいえ、単なる美談で済ませないのが唯川流。準備段階はもちろん過酷な山上でさえ、女性たちは自己主張し、対立し、時に傷つけ合う。「山頂には、登らなければ見えない風景があり、自然は優しく美しい。でも、普段なら何でもないことに耐えられず、いら立つのも山。きれいごとだけでは山には登れない」。自身も十数年の登山歴を持ち、本作の取材でエベレストの5千メートル付近まで登ったからこそ書けた場面だろう。

 物語の前後に置かれた、東北の高校生と富士山へ登るシーンも印象深い。東日本大震災後、田部井さんの発案で実現したプロジェクトだ。「田部井さんの言葉にある通り、『一歩踏み出せば一歩進む』。被災地の未来への一歩、夢のために進む全ての人の一歩につながれば」との願いを込めたという。

 取材で出会った田部井さんの印象は「“山屋”である前に、普通の女性であることを大事にしている人」。執筆に際して出された唯一の条件も「自分をヒーローにしないこと」だったという。がんと向き合い闘い続けてきた田部井さんは、連載中の昨年10月に他界。「最後まで読んでもらえず残念だったけれど、生き方だけでなく、引き際も見事にかっこよかった」と賛辞を贈る。

 単行本では、故・植村直己さんら実在の登山家を実名にするなど、昭和の山岳界をより明確に書き改めた。「ありったけの知識や思いを込め、これほど調べ上げて書いたのは初めて。登ったことのないルートが見えてくるような新しい体験だった。ここが今の私の『てっぺん』です」

 幻冬舎刊、1836円。

▽ゆいかわ・けい 1955年金沢市生まれ。2002年「肩ごしの恋人」で直木賞、08年「愛に似たもの」で柴田錬三郎賞受賞。「燃えつきるまで」「テティスの逆鱗」「逢魔」「啼かない鳥は空に溺れる」など著書多数。

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