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「クスノキを見ながら『何くそ』の気持ちで頑張ってきた」と話す関山光司さんと妻の尚子さん=尼崎市
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「クスノキを見ながら『何くそ』の気持ちで頑張ってきた」と話す関山光司さんと妻の尚子さん=尼崎市
尼崎空襲で焼けたれんがが積み重ねられた自宅の塀と関山光司さん=尼崎市
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尼崎空襲で焼けたれんがが積み重ねられた自宅の塀と関山光司さん=尼崎市

 兵庫県尼崎市の関山光司さん(83)の自宅庭には、1本のクスノキがすくっと立つ。終戦後間もなくして、焼け焦げた株から小指ほどの新芽を出した。70年以上の歳月を掛けて高さ7メートルに育ち、青々と茂った葉は空へ向かう。

 「クスノキもこないして大きくなるんやから、私らも頑張らなあかんなあ」

 関山さんはこの木を見る度、58年前に亡くなった母ミサさん(享年56歳)が口癖だった言葉が頭を巡る。

 74年前の1945(昭和20)年6月1日。関山さんは小学3年生だった。縁故を頼って宝塚の西谷地区へ、母ときょうだい3人の家族5人で疎開していた。「家を守る」と農業を営む父の留三郎さん(享年81歳)だけが、尼崎に残った。

 昼ごろ、宝塚から尼崎方面の空に煙が上がっているのが見えた。「大阪がやられているらしい」。そんな情報を聞き、家族みんなで電車に飛び乗って自宅へ向かった。

 日が明るいうちに最寄りの国鉄神崎駅(現・JR尼崎駅)に着いた。煙がくすぶり、自宅も含めて一帯が焼け野原。近所では近くの長安寺の門しか残っていなかった。

 近くの西長洲八幡神社に向かうと、黒焦げの遺体が山積みにされていた。その中に見覚えのある帽子をかぶった男の子の遺体に目が留まった。同級生だった。「金楽寺小学校の帽子をかぶって横に寝かされてて。あのときの光景が脳裏から離れなくてねえ」

 そこまで話すと、関山さんは急に口を閉ざした。「もう思い出したくもない。蒸し返す気持ちもあってねえ。もう83歳にもなるのに」。この日の空襲では市民248人が亡くなった。

 父は戦火を逃れて無事だった。空襲の翌日から焼け残ったトタンを集めてバラック小屋を作り、家族で暮らした。塀は焼けたレンガを積んで造った。庭で畑を作って、サツマイモや米を育てた。

 終戦後は闇市がにぎわいをみせたが、着物が全て焼けてしまった関山さんは、食料と交換すらできなかった。米がわずかしかなく、毎日おわんに顔が写るようなおかゆばかり食べた。「戦争に負けたことより、とにかくひもじくてひもじくて。それがつらかった」

 焼け跡からクスノキの新芽を見つけたのは母だった。大喜びし、マツやサクラを庭に植え、緑を増やした。関山さんも、クスノキの成長に励まされ続けた。

 今年7月、息子家族が家を建てるために、庭をつぶした。でも、関山さんはクスノキとレンガの塀だけは残してもらうようにお願いした。「おふくろの言葉が染みついているし、私たちが苦労してきた記憶でもある。何でも買っては捨てる時代だけど、残さないと残らないから」(斉藤絵美)

     ◆

 1945年3月から、8月15日の終戦の間際まで、尼崎は8回にわたって空襲に見舞われ、479人が亡くなった。終戦後は壊滅した町に闇市ができ、やがて商店街に発展し、にぎわいを取り戻した。空襲の記憶と共に、焼け野原から立ち上がった人たちの歩みを紹介する。

◇戦争を知らない若者へ 何があってもあかん◇

 戦争は口に出して語りたくはない。つらい記憶を思い出すことは、嫌なことだから。取材を受ける時くらいしか、息子にも話したことがない。戦争は何があってもあかん。友達が真っ黒焦げになった姿なんて、小さな子どもには絶対に見せてはいけない。僕みたいな思いはもう誰にもしてほしくない。

 最近、人に危害を加える事件が多い。物がありすぎて、みんな平和ぼけしてしまっているのかな。平和な時代はいいことだけど、今の子どもたちは幸せなのか、かわいそうなのか分からないと感じてしまう。

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